人材活用センター卒業記念文集より

 「謡子追想」のモデルになった、国鉄労働組合東京地本新橋支部要員機動センター新橋支所分会が、分割・民営化から2年後の1989年5月に発行した、「人材活用センター」卒業記念文集の一部です。


国鉄に入ってから今まで

 私が国鉄に入ったばかりの時は、労働組合などというものは、学校の公民の時間にならったていどのことしか知らなかった。熱海の学園での新入社員研修の時間に、国鉄は赤字なのだから職員を減らし35万人体制にしなければならないと、いわれれば何の疑問もなくそれを受け入れた。今思い出しても、とても恐ろしいことだと思う。しかし現在の社会の中、労働組合というものを良く知らずに、会社の言うことを何の疑問もなく昔の私のように受け入れてしまう人や、疑問に思っても組合がなかったりしてどうにも出来ない人たちも少なくはないんじゃないかと思う。
 そんな私が一番最初に発令された職場が扇町の駅だった。そこで私が見たものは、職場の安全や衛生、勤務について管理者に抗議している先輩たちの姿だった。この時の私は、国鉄が初めての就職だったので会社の上下関係みたいなものは、テレビのドラマのなかのようなものしかしらなかった。だから私にとって先輩たちの行動は初めて見聞きすることばかりだった。そんな私が、扇町で働く中、学んだことは、安全や自分の健康、働きやすい職場を守るためには、言うべきことは言わなければだめだということだった。
 そんな職場も合理化でなくなり、束京駅に転勤になった。扇町時代もふくめてこのころは分会や上部機関の指示にしたがってただ動いているだけだった。そんな何の経験もない私が、新橋支所時代には、いきなり組織部長をやり、つづいて財政部長と分会の役員をやらせてもらい、不慣れなもので皆に迷惑をかけてしまい申し訳ないと思っています。
 そんな新橋支所での約3年間は、ネームプレート、東京貨物ターミナル、短かい時間だったけど初めてのスト、そして分割民営化反対の闘争、まさに長いようで短かい3年間だった。
 支所での生活は、私に今まで経験しなかった、これからも経験できないであろう貴重な体験をさせてもらったと思う。それは、労働運動のことや仲間との楽しい旅行であり、日々の学習であったり、皆で作り食べた昼食の味だろうと思う。これからの日々の中に新橋支所での貴重な体験を生かしていけたらと考えている。 最後に不慣れな執行委員で迷惑をかけたことを。もう一度おわびし終りにしたいと思います。


間違ったと思うまで、この考えで人生を進む

 自分が、この支所に来たのは、85年5月15日でした。汐留の荷物跡の建物で今は使われておらず、建物のなかは、一言では言えないほどの汚さでした。自分、○、○、○さんの4人、全員、2月の駅運輸係全廃で、職種がなくなり、強制配転されてきました。
 三人の仲間と一緒だったので、行く先に対して不安はあまりありませんでしたが、新橋支所は、役員、活動家の集まりだと聞いていたので、どんな仲間が来るのか、これから先、自分がどうなるのかが一番心配でした。
 そう考えているうちに、大森、品川、東京駅の順に、仲問が来ました。やはり全員緊張した顔をしていましたが、しかし不安そうにしている人は、いませんでした。仕事が終わり帰る前に数人から声が掛かり、すぐ支所分会を作ろうと言われ、その日か、明日のどちらかの日に、分会を結成しました。やはり、活動家の面々が集まった所だなと思いました。 自分は、執行委員へ立候補しないかとさそわれましたが、少し戸惑いがあり、青年部常任委員に立候補する事にしました。常任委員にも、三役にも率先して立候補する人がいて、さすがだなと思いました。青年部結成委員会が終わり、仲間10人位で、酒を飲みに行き、話をした時に、自分はひと安心しましました。それは、全員が、自分と同じく、意地とか、根性で、今まで闘ってきたように思えたからです。
 それから約3年近く、仲間と苦楽を共にしてきました。特に、横浜駅では、助勤に行く日は毎回のように、管理者と言い合いになりました。駅長と口論になったり、冬の、雪の降った寒い日、アノラックを着させろと言ったら、否認扱いで、仕事をさせてもらえず、帰されたりしました。しかし全員管理者の嫌がらせに負けず、元気に助勤に行きました。今、どこの職場へ行っても、あの団結した闘いはできないのではないかと思います。最後に、数多くの仲間が職場を去っていきましたが、それは、それぞれの考えのもとに進んだ道だと思うし、今の仕事を頑張っていってもらいたいと思います。
 自分は、今、進んでいる道が、間違ったと思うまでこの考えで人生を進もうと思います。

 ※ 否認…… 当局の承認なしに勤務を欠いた時間の扱い。時間内の抗議行動などに対して、「○時○分から○分まで否認扱」いというふうに乱発され、処分の対象になった。


採用を拒否された仲間を思う

 新会社移行前、私は正直に言って、職場には残れないのではないか、と考えていました。そんな思いもあってか、新橋支所で過ごした数年間というのは、私にとって思い出深いものがあります。
 中でも忘れることの出来ないのが、あの人活の発令を受けた頃からのことです。「人材活用センター兼務を命ずる」、たった一枚の紙切れによる発令行為が私たちにとって重大問題となりました。余剰人員対策を口実に、分割・民営化に反対する者を、見せしめ的に本務から切り離し、仕事を奪い、何ら関係の無い業務をさせるというものであった。事実がわかるにつれ、当局への怒りと、くやしさが込み上げてきたものでした。
 また、その頃から、体調に不安のある私の体を気づかい、心配している実家からの電話が多くなってきました。新聞等で報じられる余剰人員の数に不安を感じていたのでしょう。随分、心配をかけていたこともあって、辞めて帰ろうかと、真剣に考えたこともありました。でも、辞めることは出来ませんでした。今、辞めるのは逃げることで、当局の思い通りになってしまうし、負けることになる。
 苦しいのはみんな同じである。そして何よりも、当局の不当な差別に対し、屈っすることなく闘っている新橋支所の仲間がいたからこそ、頑張りつづけることが出来ましたし、その結果として、私は新会社に採用されることが出来ました。
 しかし、本州は欠員状態にもかかわらず、不当にも清算事業団に収容された仲間もいました。3年間という期限付きの首切り攻撃をかけられ、仕事も与えられず、自学・自習の毎日です。私は新橋支所の頃、仕事といっても、朝・夕の通対がほとんど、という毎日の中で、少しづつではあるが無気力になっていったのを記憶しています。労働者から仕事を取る、こんな辛いことはないと思います。
 新会社に移行し、新橋支所も廃止され、仲間も、出向・事業部等、に不当配属されてしまいましたが、各職場で頑張っていることと思いますが、清算事業団のことを、つい忘れがちになっている様な気がしてなりません。3年間の期限も残すところ、1年余りですが、JRと清算事業団を、ひとつに結び付けた運動がまだ出来きれていないのではないかと思います。
 人活を廃止にさせたのも、みんなで問題意識を持ち、最後まで仲間を信じ、運動に取り細み、闘ってきた成果ではなかったかと思います。清算事業団の問題も決して他人事ではないと思います。私たち自身の問題として考える必要があると思います。国家的不当労働行為を許さず、首切りを撤回させ、一日も早く、JRに採用させることが、私たちの要求の前進にもつながるのではないかと思います。
 新橋支所が無くなったのはさみしいけれど、それぞれの職場で、運動を作っていけたならば、どんなに素晴しいことかと思います。 私も新橋支所での貴重な経験を生かして力不足ではありますが、精一杯今の職場で頑張ってみたいと思っています。


本当に楽しかった

 私の国鉄生活10年の内の約2年間を新橋支所で過ごしました。ずーっと新橋駅のホームで働いてきた私にとって、新橋支所はとても不安でした。支所といってもロッカーぐらいしかありません。どんな仕事をするのかもわかりませんでした。メンバーも新橋駅からの4人だけでした。でも東京駅のメンバーが来た時は安心と同時にびっくりしました。なんともにぎやかなこと。「すげー連中が来たな」と思いました。案の定、初日からの当局とのケンカ。とんでもないとこに来たなと思いましたけど、自分もきらいじゃないもんだから、けっこうがんばってケンカをしたと思います。まぁその最高の勲章が、東京貨物ターミナルでの草むしりだったと思います。
 私は今でも13人の中に選ばれたことを誇りに思ってます。あとにも先にも新橋支所での最高の思い出だった。今は国鉄をやめて熊本で働いてますが、私はこの約2年間は、ほんとに楽しかったです。たった2年の間に何十人という友達と知りあえたり、新橋駅約7年間あんまりと言うより、ほとんどやらなかった組合運動も自分なりにがんばったし、青年部の役員にもなったし、普通の人だったら国鉄生活の一生かかっても、もらえないくらいの処分も、もらったし。たしかに新橋支所での一日一日はつらくもあったし、不安でいやでした。でも楽しかったと思えるのはみんなまわりの人たちが、自分のことより他人のことを、自分のまわりの仲間のことを心配したからだと思います。私は国鉄をやめて1年半くらいたつけど、今でもみんな仲間としてつき合ってることがすごくうれしくてたまりません。普通だったら、バラバラになってしまうと、けっこうそれまでみたいな感じだけど、今でも私の所にも、いろんな行事の連絡があります。辞めていった私なんかでも、いつまでも仲間だと思ってくれることに、ひじょうに感謝します。またこんないい仲間がいたから新橋支所でもがんばれたんです。
 私は現在熊本にいるので、なかなかみんなと会えないけど、会って酒を飲める日を楽しみにしてます。みんなもそれぞれの人生があるでしょう。これからも新橋支所をわすれることなく、がんばって下さい。もっといろいろあったんだろうけど、これくらいしか文に書けません。

  国労新橋支所分会 バンザイ! そして アリガトウ!

 ※ 東京貨物ターミナルでの草むしり…… 当局は、最もはげしく労務管理に抵抗した13人の組合員に、85年9から11月にかけて、東京港大井埠頭にある東京貨物ターミナル駅での「草むしり」を命じた。


仲間

 私は、85年5月に東京駅(本屋〉から、新橋要セに配転させられて来ました。当時、組合の事は何もわからずに分会結成と同時に執行委員になり苦労した事が、昨日のように思い出されます。 支所にいるころの事を考えると、いろいろな事が、思い浮かんできます。ワッペン闘争、8・5スト、東貨タへの「草むしり助勤」など、よくやったなと思います。毎日、品川の港南口へ、でむかえ、その日のあった事を報告しあったり、又、○君と○さんの、お茶代論争」は、今でもわらえます。横浜での朝通対で、アノラックを着せさせずに、よく帰されたり、改札助勤では、メモ帳又はワッペンだと思いますが、仕事をさせずに、内勤でカンヅメになった事もありました。その時、星野さんだと思いますが、助役に、○〇君はもう「はずしたよ。」と言われ、不安になったが、休憩時間に、皆の助勤先へ電話をかけ、皆がんばっている事をきき、自分も、ガンバレたとの話があったと思いますが、その話をきいた時、うれしくなりました。
 毎日々々、日比谷の野音で集会、請願デモ。地本青年部の東京駅での「ハンスト」の時は、外は雨がドシャ降りで、当局が夜、屋根の下で、ねむれないように水をまいた事、くやしかった。雨の中、当局の動員者に対してやったシュブレヒコールや、「インター」は忘れません。最終電車で来て、とまった仲問、ハンストに入った仲間、応援にきた、親分会の仲問……。
 又、攻撃の嵐の中、退職された仲間、採用されたけども3/31付で退職した仲間などたくさんいました。それに、不採用にさせられた、○さん、○さん。私がこの間、よかったと思うのは、多数の仲間と知り会えた事です。あのような、差別され、いじめられてもガンバッテいる仲間です。

 時々労働者は勝つことがあるが、ほんの一時的にすぎない。かれらの闘争の本当の成果は、その直接の成功ではなくして労働者のますます広がっていく団結である。 (共産党宣言)

 ※ お茶代論争…… お茶、コーヒー、各種調味料などを買うため、分会で作った互助会が集めていた月、300円の使い道は全体集会で大論議の対象になった。


みんなに感謝します

 85年5月、東京駅ホーム合理化で要セ新橋支所に来てからの3年問は、自分にとって労働組合・仲間・職場闘争について本当に勉強になった時だったと思う。いろいろな意味で自分の弱さについて考えさせられたし、仲間から学んだことが多かった。仲間どうしの感情的あつれきも、単に苦さだけでないものになりつつある。
 支所での3年問、分会を作り、点検摘発メモ帳着用、点呼での抗議、要求を作っての支所長申し入れ、屋上での集会、草むしりさせられた仲間への激励行動、助勤先の駅へのニュース配布……いろいろなことをやったが、特に印象に残っていることと言えば、やはり次の何点かということになる。
 一つは何といっても、全面屈伏の道を否決した修善寺における国労全国大会である。支所で一人一人の気持ちを書いたパンフを作って全国に送ったり、当日は未明から会場前に座りこんだりしたが、あの日傍聴席で、一つしか残らなかった弁当を、○さんとつつきあったおいしさが妙に忘れられない。
 そしてそれを前後して毎日のように続けられたハンスト・国会請願などの大衆行動、とりわけ支所独自で行なった駅頭での「人活写真集」売りである。国会での法案通過、人活=首切りと言われる中で、何かをし、身体を動かしていないと不安でしかたないということで、駅頭で大声をはりあげながら写真集を売りまくった。1時間に10部以上売れる時もあり、首切りへの国民の関心の深さ、これなら敵もへたなことはできまいという確信を身体で感じることができた。木枯らし吹き枯葉舞う中で声をからして訴えていた仲間の顔が浮かぶ。
 そんな必死の闘いにもかかわらず、2月16日、支所では○さんと○君が不採用となった。この日は、苦楽を共にした仲間が不当に首を切られた日として、生涯忘れられないと思う。
 四つめに、多くの仲間が直営店舗等に配転され、不当労働行為メモ帳をはずすことにした時の議論である。先輩づらをした言い方で恐縮だが、一人一人の発言の中に、2年前とはちがった成長を感じた。
 そして第五に出向に出された仲間を集めて支部が行なった対策会議の席で、S君が涙ながらに支部委員長を問いつめたことである。そのことがきっかけとなって本社前のすわりこみは実現した。
 もちろんこれ以外にも、あの時あの場面での○君の団結ガンバロウがどうだったとか、…思い出はつきないし、書き出したらきりがない。
 今思うことは、本当にあの厳しい2年間よくみんなで頑張ってこれたということだ。不当な管理者の姿勢に「負けるものか」と怒りをたぎらせ、分割・民営化に反対する国民会議の話にトンネルの出口を見い出した。最近地労委での勝利命令が続いているが、国鉄・JRをやめた仲間の実態を聞く時、みんなでひきとめきれなかったことをつくづく残念に思うのと同時に、みんなで頑張ってきたことをこれからの生活の支えにしてほしいと思う。
 それにしても最近、○君が奥さんと「労動組合とは何か」の勉強をはじめた、○君が職場の学習会を自宅でやったなどの話を聞くにつけ、支所にいたころを思い出しながら、励まされ、一緒にやってきたことをうれしく思う。
 最後に、分会長としてやってこれたこと、みんなが支えてくれたことに心から感謝し、支所での思い出、今後の闘う決意とします。