終わってないと思って俺たちは生きてきた。これからも生きていく。

2017/10/28

【対談】平田誠剛 × 代島治彦 

(2017/09/30 於シアター・イメージフォーラム)

 2017年9月、代島治彦監督作のドキュメンタリー「三里塚のイカロス」が公開されました。
 平田誠剛氏は主要な出演者。開港阻止闘争で管制塔に駆け登った15人中の1人で、8年間の投獄に耐えた人です。上映後のトークイベントで代島治彦監督と対談し、映画の中では自制していた思いも含めて、心境を語りました。

最初に言いたい「ありがとう」

【代島】 平田さんは、「今日は言いたいこと全部喋るんだ!」とお仲間に宣言しているようですが…。

【平田】 一番最初に言っときたいんですけど、「ありがとうございます」、この言葉しかありません。私たち支援者として三里塚に行ってた者の心情やら抱えた思いを、このように描いていただいて大変ありがとうございます。もちろん、批判もありますが。(笑い)

【代島】 (笑い)

【平田】 それに、ちょっと驚いたんですけども、私自身は、この時代のことはあまり語らないようにしてきました。ただ、この映画に出るとなったとき、やっぱり昔のことに向きあわなきゃいけないし、それが今と、どう繋がっているかということを…考えさせられました。そしたら、何だか皆ばらばらに、あちこちでいろんなことをやっている昔の仲間がですね、いろんなことがあったんで、それぞれ傷を持ってたりするんですが、こいつらが、やっぱり私と同じように、終わっていないんだ! 続いているんだ! もちろんフィールドは三里塚と別のところに居るんですけど、三里塚闘争が彼らの中で続いているんだという話を聞いて、ああ、そうだろうなと思いました。「三里塚のイカロス」上映を機会に、それが分かったことがとても嬉しかったし、お礼を申し上げたい。一番最初に。

【代島】 ぁー、批判は後にしてね…(笑い)。
 平田さんは「三里塚のイカロス」が公開されるころに、facebookでグループを立ち上げましたね。そのグループで、映画を観た感想とか、いろんな意見が日々日々バーッと出ましたね。あれを読ませていただいていますが、もちろん、映画の最後のところには批評、批判があるんですけど、多くは、この映画を観て、今、もう一度自分にとって三里塚、あるいは「あの時代」とは何だったのかを考え直している、それを今まで仲間にも言わなかったような、自分の思いとか、あの頃こう思っていたとか、こういう経験をしたとか、そういうことを、みんな、すごく詳しく書いてますよね。あれに驚きました。平田さんは、どうですか?

3・26管制塔占拠は何をめざしたのか

【平田】 3・26、つまり管制塔占拠と言うのは何だったのか、何をめざしたのかという事をあらためて考えさせられたんです。…で、あの当時、内ゲバは激しかったし…人殺しをやってる状態ですよね…、私たちが考えたのは、そんな中で、スカッとしたことをやろうぜ、梅雨の晴れ間に青空がバッと見えるような、そういう闘争をやりたいねというのが、第4インターを中心とする、その周りにいた人たちの感覚だったと思います。そういう意味で言うと、テロリズムを排して、自分の体をかけて、あそこで綺麗に勝つということが最優先にあって、それをめざした。それを見事に実現したんだと思います。たいへんな犠牲を負いましたけれども。仲間の命がそこでなくなっちゃったこともありますし、その後、一緒に管制塔に行った原君が、拘禁症で、出てきてすぐに自殺するということもありましたし、いろんな犠牲を負ったんですけども、それでも、「あの時代」にスカッとした勝ち方をする、スカッとした勝ち方をすることで、次の時代の新しい流れをつくり出せるのではないか…と思っていた。それはある程度のところまでできたけれど、やっぱり力が足らなくて、腹のたつことに中核派のああゆうあり方を、私たちがきちんと、…はっきり言うけど統制して、ああいう動きをさせずに反対運動を続けていくことが出来なかった。そこは、私たちの責任であろうと思います。それは第4インターということではなくて、もちろんそこが一番責任をとるべきだと思いますが、私個人としてもそう思いますし、あそこに関わっていた人、心寄せていた人が、それこそ反対同盟に責任を持たなければいけなかったし、日本のそういう運動に責任を持たなければいけなかったんだと、相変わらず思い続けています。

【代島】 ぁー、なるほどな。確かに管制塔占拠は、実際に管制室を占拠して、機器を叩き壊して、それで無抵抗で捕まって…、管制塔を占拠した人たちは、誰も傷つけず、人質もとらず、スカッーとした勝ち方だったと思うんですけども、逆に言えば、今言ったように新山さんが火だるまになって、結局亡くなるという犠牲もありましたね。それで、たとえば島寛征さんという反対同盟の事務局次長に、パンフレットを作るので話を聞いたんですけど、やっぱり、一人の命と空港の開港を一か月半くらい遅らせることと、どっちが重いのか、やっぱり命だということを島さんは言ってた。加瀬勉さんという映画にも出てくる農民運動家は、管制塔占拠はできたけれども、その後、新左翼の党派は第4インターも含めて力を失っていった。開港阻止決戦は、3・26の以前にも横堀の要塞戦とか、いろいろありましたから、すごくたくさん逮捕者が出たり、けが人が出たりしたから、人的にも資金的にもあそこですべて使い果たして、そのあと総崩れになっていったと言っていました。
 そういう意味では、スカッとした勝ち方だったんだけど…、それはある意味で後の時代の人たちにも伝わるようなレベルだったと思うんです。でも、現実を見るとそういうことがあった。今までは、スカッとした勝ち方の方が、伝説として後の時代の人たちに伝わっていたけども、スカッとしない方はあまり伝えられてこなかった。だから、この映画では、スカッとしない方もちゃんと伝えなきゃなという感じもあったんですけども…。

闘いの「スカッとしない」面について

【平田】 あのぉ、なかなかね、それに答えるのは難しいんですけど、あの後、いろんな問題が起きますね。内ゲバだけじゃなくて、それは、わりに反対同盟の人たちもあまり言葉にしてこなかったし、そうやって生きてきた。でも、私はそれを無理やりほじくり出して、言葉に出して言おうとは、あんまり思ってないんですよ。
 そういうものを抱えながら、たとえば私は福島に…、今、ほとんど福島県のいわき市に住んでいるんですけど、いわきで、原発事故で避難した人たちと一緒に歩む事を考えている。やり続けているんですが、それって、私にとっては三里塚闘争で経験したものが土台になっていて、人々の共感を集めるとはどういう事か、人々と一緒に歩むというのはどういう事なのかを問い続けるという生き方を、恥ずかしいけど、今もしてるかな、という感じです。

【代島】 恥ずかしいことを、カメラの前では絶対言いませんでしたよね。

【平田】 はい。言うべきことにあらずと思っていました。で、さっきの話で言うと、映画の最初に出てくるエピグラム(「怪物と闘う者は、闘いながら、自分が怪物になってしまわないようにするがよい…」= ニーチェ =)、それから、代島さんが私にくっついて歩いてた時に、埴谷雄高の「死霊」を読み直したとおっしゃってましたよね。埴谷雄高の「死霊」もそうだけど、あの時、私はドストエフスキーの「悪霊」を思い出していて、人間のやることだから、19世紀におきたような、あのような人間のあり方は今だって起きる、人間は抱えている、中核派だけではなくて、そういうものを抱えている。

【代島】 人間は抱えている。

【平田】 ただそれを、私はやっぱり、なんちゅうかな、こと改めて言いたくないし、それはそれぞれが抱えているということを、ちゃんと心の中に持ってなければいけない、わかってなければいけない事だと思うんですよ。それは、組織もそうだし、個人もそう。で、しかし、私やっぱりそこから逃げずに、その場に踏みとどまって、アビスを覗き込みながら(注・「アビス」abyss 英・深淵)、だけど、実は見てないよって風に…ちょっと面白い闘いやりたいなあっていう風に…思う。

【代島】 だから、続けてるわけですね。

【平田】 はい。だと、思います。

福島を支援している平田さんに一番関心を持った

【代島】 僕が平田さんに出演していただきたいと話したのは、この映画に出てくる人の中では結構早い時期だったんですよね。それで、立川の飲み屋で話して、平田さんが今、福島でやっている事は知ってたんです。やっぱり僕の、平田さんを撮りたいと思った興味は、三里塚で支援という立場で闘ってああいう結果になった。今また、福島の原発の被災者の人たちのために、同じように、支援という立場で入っているわけですよね。だから、当事者ではない訳ですよ。で、その、支援という立場で三里塚で学んだことが、今、平田さんの中でどう生かされているのかということを見に、僕、平田さんと一緒に5回くらい福島に行きましたね。(笑い)。
 この映画の中に福島の今を描きこむことがなかなか難しくて、結果的には、その部分は入らない映画になっちゃったんですけどね。ただ、やっぱり一番平田さんに対して関心を持ったのはそこなんです。第一原発の近くで立ち話にカメラ向けて、「平田さん、やっぱり、あのー、支援というのは難しいですね」といろいろ聞いても、何も答えてくれないしね、(笑い)。だから、そういう意味では、平田さんの中で、まだそんな、自慢っていうのかな、誇らしく、三里塚に続いて福島でこうやっているんだ! みたいな、まあ、平田さんにはすごいシャイな部分があって、なかなかね…、そこでバーッて言わないところが、いいなあと思いました。

【平田】 いや、やっぱりね、たとえば三里塚に行っても…この映画見ても…、いろんな嫌なことがあったんだけど、やっぱり俺のふるさとだな、みたいな、あそこから出てきたんだな、みたいな感じがある。で、中核派の人たちみたいに、目吊り上げて見得切るなんてことは、とてもとても恥ずかしくてできないし、人に、「裏切り者」とやら言うのは、とても俺にはつらくて出来ないんですが、その中で、そういう、ふるさとだなあとか思いながら居るあり方を、別のところで、別のフィールドでもつないで、考えながら生きたいと思ってきたんです。
 福島の人たちはあまり経験もない、どうやって社会運動やったらいいのかという経験もない、リベラリストを探せば虫眼鏡で探したって出てきやしない。一方、三里塚は、映画には描かれてないけど、歴史的にずっと権力と闘ってきたところですよね。戦前からの小作争議が農協につながり、ある意味ヤクザっぽい尚武の地なので、ばくち打ちながら、あちこち田んぼが飛んでいくみたいな、そんな世界で生きてきた人たちなので、そりゃあ、闘争力あるんですよ。もともと福島の浜通りの人たちとは違う。で、そんなかで、それでも私は保守派っていうもの、農村の保守派とはどういうものだろうかということを、三里塚のことを考えてアプローチしたし、そこでお話をしていくという風に、やっぱりやり続けています。三里塚の経験があってあせらなくなりました。そうやって生きるしかないんだ、という。
 そんなことを続けていると、ほんとに、心を通じ合える瞬間みたいなものがあって、それだけで充分だと思うんですよ。岸さん(注・ラストに登場する元中核派の現地責任者)の話を聞いていると、ほんと、変だなと思う。自分たちが三里塚を日本の階級闘争の頂点だと決めたと、だからあんな風におかしくなったんだって。…それって、自分の都合でしょって、私は思うんですよ。私が現地に行くときには、半分くらいは、こんなところに来て騒いでごめんなさいという気分がどうしても去らなかった。そういう思いをしながら、「ちょっと管制塔に行って来い」と言われたら、「はいっ」って返事して行く…、そういうのが誇りだろう…と思います。で、相変わらず私は福島に行っても、支援として、半分冗談ですけど「尽くしたりない私が悪い」とか言いながら、一方では被災者からいろんな支援物資もらったりしながら生きている、という状態です。私にとっては、とても幸せなあり方です。

「俺と平田は、まだ三里塚終わってないんだ」

【代島】 あのー、映画の中で一緒に会話している吉田さんが、試写会に来てくれて、映画見終わったあとに、「俺と平田はまだ三里塚終わってないんだ」と言ったんですよ。あー、そうだなあと思った。で、ある映画評論家から、特に平田さんと吉田さんの今が気になる、それをどうして描かなかったのって言われたんです。吉田さんは日本障害者カヌー協会の会長をやっている。下肢に障害のある人として日本ではじめてカヌーに乗った人、死んでもいいからカヌーに乗ると言って乗って、それでみんなに、乗れ、乗れって仲間を乗せて、それがオリンピック競技になっちゃって、今会長をやってますよね。それで、平田さんは福島でやってる。やっぱり平田さんと吉田さんのその後を描くのはとても面白いと、ずーっと思いつつ、でも映画の中では、…二人が三里塚に来て、そして…去っていく…、そういう感じだから、今がイメージできないんですよ、この映画からは。他の出演者の今は何となくイメージできるんだけど。だからその点は二人、損しちゃったかなって。

【平田】 いや、いいんじゃないですか。私は、…来て、去っていく。それが支援だと思っているので、別のフィールドで三里塚が生きればいいと思うんです。義朗もたぶんそう。あいつら、カヌーに乗ってね、水に出るときに、危ないのなんの、いろいろ言われて、「俺たちは命を賭けて冒険する権利があるんだ」「死ぬ権利があるんだ」みたいなことを言いながら、沖に漕ぎ出す。やっぱり申し訳ないけど、中核派の人たちより俺たちの方が過激派だと思います。そういう意味で言えば。

【代島】 人生のね…

【平田】 ラジカルという言葉を使うなら、義朗たちのほうが、ずっとずっとラジカルです。

【代島】 そうですね。岸さんは保守的です。組織保持ですよね、ある意味。この映画のエンディング、一番最後は岸さんで終わるじゃないですか、平田さんの仲間たちには、そこは評判悪いね。(笑い)

【平田】 そりゃあそうだ。(笑い)

【代島】 どういう風に思いますか、そういう意見を聞いて。

【平田】 イカロスというタイトルのつけ方も、運動がああいう風になっていったと編集するのも、作りやすかっただろうと思います。すいません。ある意味、とても分かりやすく出来ている。でーも! 違うんだぜ! と、俺たちはやっぱり言いたい。終わってないと思って俺たちは生きてきたし、これからも生きていくだろうから。

【代島】 えー、えー、えー。ギリシャ神話のイカロスは海に落ちて死んじゃいますよね…、墜落して。でも、この映画はイカロスが死んじゃう事を描いているわけではないんです。誰がイカロスか? みたいな議論がありますけど、僕は「あの時代」そのものがイカロスだったという気がする。翼が生えた時代だったなと思う。だから、その「時代」が墜ちちゃった。だから、岸さんがイカロスだったという人もいるし、いろんな方がいるんですけど、僕自身は誰がっていうことはないんです。

【平田】 それは…、一番最初に試写で見たときに申し上げましたよね。「あー、イカロスって岸さんのことなんだ」って。そしたら、「違う、あそこに出てくる全員だ」と代島さんに言われて、「えー、俺も入ってるのかよ」。(笑い)。

【代島】 (笑いながら)だから、「あの時代」に生きた人ですよ、そういう意味では。ただ、平田さんが言うように、この映画は1967年の10.8の羽田の闘争、やっぱりあそこから三派全学連、新左翼の党派がグーッと一度盛り上がっていって、それで、70年代、内ゲバがあったり連合赤軍の事件があったり、いろんなことがあって、「時代」の翼がもげるわけですね。ある意味。うん。ただ個人個人は生きているわけです、それぞれ。それぞれ生きていく。何か、そういうことを描きたいなって思ったんです。

内ゲバ反対はトロツキストの生き方

【平田】 いろいろ私がfacebook に書いていることをについて、あるいは、映画の中で喋っていることについて、昔の仲間からは、違和感があるという意見や批判が来るんです。それはなぜかといえば、映画の中の私が結構ちゃらんぽらんに答えているからです。中核派がああいう形で第4インターのメンバーを襲う。その時、なぜ反撃しなかったのかという話を、私は映画の中で、非常におちゃらかしのように言ってますけど、これは実は、1925年くらいからずーっと、トロツキスト(文末注参照)の生き方そのものなんです。トロツキストは後ろから撃たれ続けてきて、しかし、前の敵を倒すことを考え続けてきた。それが基本的な考え方なんです。後ろから弾が飛んでくることを知っていながら、内ゲバは排して共に闘う戦線を作っていくという、難しいけど、だけどそういうことをやろうとした。で、そこは中核派のような反スタ派(文末注参照)とは全然違う。そのセンスがある、その思想性があるので、反撃はしないんだとちゃんと言えと。それは確かに、立派なトロツキストはそう言うと思います。でも、私は全然立派なトロツキストではない、自分はトロツキストだったのか? とすら思うので、ああいう風にしか言えなかったんです。
 それから、今日来てくれているんですけど、さっき、ばったり会って驚いちゃったんだけど…、管制塔に行くときに私の隊長さんになるはずだった人がここに来てくれています。管制塔に行くとき、実は部隊は三つに分かれてまして、私は一番最初に突っ込んで血路を開いて、前田たち、一番上に登る連中を守るべき部隊だったんですが、その、血路を開く部隊の…小貫さん…まだいるのかな…(小貫さんが立ちあがり、会場からオーッという声)、実は彼が私の隊の隊長さんになるはずでした。

【代島】 何で、はず…なの。

【平田】 前の晩にですね…、これがまた4トロ(注・第4インターの略称?愛称?)らしくっていいよね、ドジ踏んで中に入れなかったんですよ。

【代島】 あーっそうか。

【平田】 地下道の中に。

【代島】 見つかっちゃって…

【平田】 そんで、そのまま止めときゃいいのに、翌日また8ゲートから突っ込んできてさ、

【代島】 ああ、そうですか

【平田】 ウァーッてやって、管制塔の下あたりでパクられてやんの。やっぱり、好きなんだね。あのー、そういう感じの人です。しかも偉いのは、あの当時、公務員やら含めて、捕まった奴らはすぐ全部、首を切られたんですが、彼は民間にいてですね、恐ろしいことに首を切られていない。

【代島】 あー、勤め上げたの

【平田】 そう。職場の仲間が守ってくれたんです。彼のような人を。あんな過激派を守ってくれた。それからもう一つ、忘れられないことは、彼が獄中で、お母さんからの手紙のことを書いた。何だか、障子紙のようなものに、ほとんど字の書けない人だったよね。それが、自分の息子のために一生懸命、「頑張れ、私も頑張るから」

【代島】 お母さんの手紙?

【平田】 そう、それを彼がさあ、獄中で回ってる回覧板みたいなものに書いて…、もー、泣けた泣けた。俺たちが繋ぐべきものっていうのは、そういうものなんじゃないですかね。そういう風にして闘争をやり続けたいですよね。

仲間が守ってくれた。職場復帰できた。

【代島】 小貫さん、今日はありがとうございます。一言だけ…、感想をお願いします。

【小貫】 あのー、平田さんが述べてくれましたように、ほんとにこの「三里塚のイカロス」、前作の「三里塚に生きる」、あれを見させてもらいましたが、本当にお礼を申し上げたい。ありがとうございました。
 平田君が言いましたけれど、私は管制塔に最後まで行かれなくてね、前田君や児島君、千葉で一緒に闘っていた仲間が中心で闘って獄に入りました。私は1年半くらいだったんですけど。職場で守る会ができて仲間が守ってくれました。それで、職場復帰して、何とか無事に定年を迎えることができました。こんな男もいたんです。
 字も書けなかった、カタカナしか書けなかったお袋が手紙をくれたわけです。で、その文章の中に、大木ヨネさんがね、稲刈りをしながら稲束を持って機動隊に運ばれたテレビを見てたという事が書いてありました。私の家は空港の近くだったんですが、あのテレビを見たお袋の思いを…、息子がああいう事をやったことに対して、最後まで心配してくれたけれども、自分たちの生き方が一番大事なんだと、ずーぅと考え続けながら今日まで来ました。本当に、懐かしいというか、ありがたいです。

【代島】 どうもありがとうございました。

(拍手多数)

【代島】 平田さん、今日はどうもありがとうございました。時間となってしまいました。一言。

【平田】 実は、これは管制塔占拠闘争から10年後に出した本(注・「管制塔だたいま占拠中―被告たちの三里塚3・26闘争」柘植書房刊)です。ここに私たちのドキュメントが全部入ってます。非常に面白い、今まで三里塚闘争の中で出た本で一番おもしろいと言ってもらった本です。残念ながら絶版です。で、金のないこの柘植書房に、もう一回出せという要求というか、今、再販を求めるネット上の仕組みがありますね。もし、そこで、そういうお話が盛り上がってくれば、私も頑張りますのでよろしくお願いします。一応、私も編集者なので。

【代島】 来年40周年ですからね。

【平田】 そうなんです。40周年なんです。

【代島】 どうぞよろしくお願いします。それから、イカロスのパンフレットを作りました。これにはシナリオも完全採録されてますので、もう一度、読んで映画の内容を感じたい方はお手に取ってください。
 それから1967年の10月8日に羽田闘争がありました。映画でも描きました。そこでなくなった山崎博昭さんという京大生の追悼プロジェクトがありまして、こんどの10月8日に集会があります。そのチラシをあずかってますので、出口でスタッフが配っていますので、どうぞ、持ち帰って読んでください。
(大きな声で) 平田さん、ありがとうございました。

(たくさんの拍手)

(終わり)

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(注)【トロツキストと反スタ派】 レーニンとともに1917年のロシア革命を指導したトロツキーは、ソビエトの官僚化に反対したため、権力を握ったスターリンに追放され、メキシコに亡命しました。トロツキーは世界革命と、労働者民主主義を復活させるソビエトの政治革命をめざして、1938年、第4インターナショナルを創設しましたが、1940年、スターリンの刺客によって暗殺されます。トロツキストとはトロツキーの考え方を支持する共産主義者のこと。
 トロツキーは迫害されながらも、アメリカなど帝国主義諸国との関係では、労働者国家ソ連の側に立ちました(「反帝・労働者国家無条件擁護」)。帝国主義と闘う勢力の内部に意見が対立する者がいても、それを帝国主義と同列の敵とは見なさないのがトロツキストの立場でした。
 しかし、1930年代になると、ソ連はもはや帝国主義に対して擁護すべき国家ではないと主張する人々が現れました。1950年代末以降、日本でそうした立場に立ったのは、反帝国主義反スターリン主義(または帝国主義打倒!スターリン主義打倒!)を掲げた中核派と革マル派でした。