橋田さんの思い出

2004/08/24

 ずんぐりした小柄な体。少し背中を丸めて、向こうからゆっくり歩いてくる姿を思い出します。真夏、炎天下の三宅坂。社会党本部の入っている社会文化会館の前を埋める人垣の中に私を見つけると、いつもの、はにかむような笑顔を浮かべて近づいてきた橋田さんは、
「どうにかならないのかな」
と言いました。2000年7月1日、「JRに法的責任はない」という方針を決める国労大会の会場前は、自殺的方針の採択を阻止しようとして集まった何百人もの組合員や支援の労働者で埋めつくされていました。
 闘う労働運動の支援者で、小さな出版社のおやじ。国鉄分割・民営化にむけて、中曽根内閣の集中砲火を浴びていた国労を支援するために、無法なやり口を告発する何冊もの本を国労組合員と一緒に出してきた橋田さんは、国労自身が中曽根のやり口を「正しかった」と認めるに等しい方針を採択する、それも、解雇された闘争団員の過半数が反対していることを無視して、力ずくで採択しようとしていることに、いてもたってもいられなくなってやってきたのでした。私は、
「どうにもならないですよ」
 と答えました。代議員の党派構成からして、自民、保守、公明、社民の「四党合意」受け入れは、その時点では既定の事実だったからです。私の冷めた言い方に落胆したような表情を浮かべた橋田さんは、少しその場にいてどこかに行ってしまいました。
 しかし、私の予想は外れました。予定通り進行していた議事は、ついに、本部の統制を振り切って闘うことを決意した闘争団員たちが演壇に駆け上がり、議事を中断したことによって宙に浮いてしまったからです(報告はこちら)。この日の闘いが、現在の鉄建公団訴訟にいたる闘争団員・家族による自立した闘いの出発点でした。
 そのとき以来、橋田さんと会った記憶はありませんし、闘争団員と家族が開始した新たな闘いに対する感想を橋田さんから聞いた記憶もありません。多分、あの日が最後だったと思います。
 それから数年後、「見晴らし荘のころ」をインターネット上で全文公開することを認めてもらおうと思い立ち、教育史料出版会に電話すると、
「橋田は骨折して入院しています」
 と言われました。1ヶ月ほどして再度電話をすると、まだ入院していると言われ、いぶかる私に、人工透析を続けていると骨がもろくなるのだと、電話に出た人が教えてくれました。命にかかわる病を抱えて、人工透析を日課としてきた橋田さんの体については聞いていましたから、嫌な予感がしました。しかし、当時すでに、訳あって子供2人を抱えた父子家庭になっていて、行動の自由のなくなっていた私は、ついに見舞いに行きませんでした。もちろん行こうと思えば行けたのです。怠惰と言うしかありません。橋田さんが亡くなったと聞いたのは2度目の電話をかけてから数ヶ月後のことでした。
 橋田さんは、国鉄が分割・民営化された1986年から96年にかけて、国鉄問題について7冊の本を出しました。世論が国鉄労働者国賊論で塗りつぶされ、国労組合員が次々と職場を追われ、解雇され、差別を受けて、100人を超える自殺者が出ているという事実が、まったく報道されないという異常な状況のなかで、六本木元委員長の本以外はみな、職場で苦しんでいた無名の労働者たちと一緒に作った本でした。どんな気持ちで本を出しているのか、聞いたことはありませんが、橋田さんは、本を武器として、確かに私たち国労組合員と同じ戦線に立っていました。

・国鉄を葬る人たちへの手紙----妻と子どもは訴える
(人材活用センター全国連絡会編)
・いまJRで何がおこっているか
(国労ルポ集団編)
・人として生きる
(六本木敏)
・JRのゆがんだ決算
(牛久保秀樹・立山学)
・ああ非情
(国鉄清算事業団問題を考える市民・労働者の会編)
・人はなぜ闘うのか
(岡田尚・国労横浜人活事件弁護団・原告団編)
・謡子追想----人は愛と闘いに生きられるか
(久下格)

 今、橋田さんが生きていれば、闘いの火の消えなかったことを喜んでいたのは確実です。解雇された当事者たちが、苦悩を抱えながらも、ぎりぎりのところで反転攻勢に立ち上がり、自立して鉄建公団を訴える新しい闘いを開始したこと、国労だけでなく、建交労、動労千葉を含めた、1047名全員の解雇撤回を求める統一した闘いが発展しているのを見たら、「これで1冊、本つくれないかなあ」と考えたことでしょう。
 私は、国鉄闘争が中曽根政権と正面から闘っていた、闘いの頂点の記録をもって橋田さんのところに行き、本を作りました。しかし、闘いが一旦敗北し、解雇撤回闘争が袋小路に入っていく闘いのどん底で橋田さんと最後の言葉を交わし、「どうにもならないですよ」という灰を噛むような言葉で橋田さんと別れてしまいました。橋田さんが死んでから、闘いはどん底を脱し、新たな闘いの広がりが生まれつつあります。困難は続くでしょうが、労働者が労働者として尊重され、働き生きることのできる社会を夢見て、国労を応援し続けた橋田さんの遺志を無駄にすることなく、可能な限り闘い続けようと思います。