見晴らし荘のころ(html版)

「見晴らし荘のころ」 (「謡子追想」改題 インターネット版)

 このテキストの著作権は著者に、版権は出版元にありますが、このたび、出版元のご好意により、インターネット上で全文を公開します。
   ■ 書 名   謡子追想 ISBN4-87652-314-2 C0036
   ■ 著 者   久下 格 (kuge@aoisora.org)
   ■ 出版元   教育史料出版会
   ■ 定 価   1,700 円+税
   ■ 発行日   1997 年6 月30 日

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2004/08/01 著者

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     はじまり

 その日の夕方、待ち合わせ場所に決めた新橋駅の改札口に行くと、川辺さんが切符を切っていた。半年前まで一緒に働いていた後輩を見つけて、川辺さんは、まず空いている左手をヤアと挙げてよこし、私が改札口を通り抜けずに立ち止まった様子を見ると、
「待ち合わせか」
 と聞いてきた。
「ええ」
「一杯やるのか」
「いや、ちょっと違うんです」
 と言う私に、
「これか」
 と言って小指を立てて見せた。曖昧な表情で、否定も肯定もしない私の苦笑いを見ると、
「いいよなあ、若いやつは」
 そう言ってから帽子を脱いだ。たしかまだ四十なのに、見事にはげ上がった頭頂部が現れて、そこをぐるりと取り巻いている白髪混じりの縮れ毛もろとも、ハンカチで一通り拭ってから帽子をかぶりなおし、再びパンチを握ってまた何か言おうとしたのが、オッというような表情を浮かべ、視線を私の背後に移動させた。私は振り返って、川辺さんの視線の向いた方角を見た。改札口の向い側にあるコンクリート製の四角い柱の影から、トンボのようなめがねを掛けた丸い顔の女が、赤い薄手のコートをひるがえして駆け寄ってきた。
「青木君ですね」
 私から一メートルのところに立ち止まってそう言ったとき、謡子の顔はもう、無防備な明るさで輝いていた。
「弁護士の仁科です」
「どうも、青木です」
 私は、まっすぐ見つめてくる視線の強さに幾分たじろぎながら、少しだけ頭を下げてあいさつを返し、それから、振り返って改札口のステンレス製の枠の方を見た。川辺さんはニヤッと笑い、私は目で返事をした。
 そして、再会した私たちは並んで歩きだした。半歩前を胸を張って大股に、ヒールで地面をカッカッと蹴るように歩く様子が、その時はやけに自信満々に見えたのだが、今思えば、あれはただ嬉しくて、体が弾んでいただけだったのだろう。私は謡子を、駅前にある大きなビルの中の喫茶店に連れていき、私たちはテーブルをはさんで向きあって座った。一九八五年十一月のある日、晩秋の早い落日もまだ落ちきっていない時刻、乳白色のガラスを通してさし込む日の色が、謡子の頬の片方を染めていた。謡子は正面から私の目を見つめると、何よりもまず、
「覚えていませんか」
 と聞いたが、私はやっぱり覚えていなかった。
「申し訳ありませんが、覚えていませんね」
「そうですか。顔を見たら思い出してもらえるかもしれないと、そう思ってきたんですけど…。あのとき、卒業式をはさんで何ヶ月かの間、青木さんたちとずっと一緒にいたんです」
 幾分落胆したという表情で謡子は言った。
「あの時のことをずっと覚えている人と会えるとは、思いもよりませんでした」
 そう言ってから、私は込み上げてくる感情を処理するために、一つ息を呑み込んだ。
「もちろん、私にとってあの時代は特別の時代だったし、あの事件にも特別の意味があります。でも、本当のことを言えば、今ではもう、たくさんの事を忘れてしまいました。あの事件を起こした三年生の仲間の名前だって、言えるのは数えるほどなんです」
 弁解しながら、私の意識は、目の前の臆せずこちらを見る女の背を突き抜けるようにして、十五年前にさかのぼり始めた。一九七〇年の三月へ。私が今ここに、こうしていることの始まりとなった、あの地点に。
「あの事件が、時代の状況によって生まれたことは確かだとしても、では、あの時代は何だったのか。私にはいまだに結論を出すことができません。日本中で若者たちが、既成の物一切に異議を突きつけたのは確かです。日本だけじゃない。ゼネストに行き着いたパリの五月革命や、ソ連の支配と闘ったプラハの春の反乱や、アメリカ軍と闘っていたベトナムのジャングルでも、つまり世界中が闘っていた。今の社会を根本から拒否しようという意志が、若者の心をとらえていました。戦争や暴力や、差別や抑圧のないもう一つの社会、来るべき社会があるのだという希望を、今よりもずっと多くの人々が持っていた。でも本当のところ、われわれは何を根拠にして、どこに向かって闘ったのか。結論が出ないのは、今も私たちが過程の途中にいるからかもしれませんね。もっと後にならないと、分らないのかもしれない…」
 謡子は黙って聞いていた。そして突然、
「変わってないのねえ。青木君あの頃と一緒ねえ」
 と大きな声で言ったのだ。その様子を見て私が笑うと、
「笑い顔も一緒ねえ」
 とまた感心した。変わっていないと謡子が言ってくれた事が、私は本当に嬉しかった。
 最初まぶしかった視線が、いつのまにか気にならなくなった時、再会するまで抱いていた疑問は、跡形もなく消え去ってしまっていた。なぜ私と会いたいのか、何を話したいのか。あの時代のことを、おぼえている者など、もういるはずはないのに。私はわずか数時間前まで、そのような疑問を持っていたことすら、忘れてしまった。私には、目の前にいる女が、私の生きてきた道筋を聞きたいのだ、そして、自分自身の人生を重ね合わせたいのだということが、はっきりと分かったのだ。なぜだろう。「変わっていない」と言った時、「笑い顔も一緒だ」と言ってくれたとき、テーブル越しに私を見た謡子の瞳が、そのことを確信させたのだとしか、今は言いようがない。視野の中心に謡子の瞳をはっきり捉えながら、私はさらに話し続けた。
「今から思えば、あの時私たちが考えたこと、言いたかった事は実に単純でしたね。卒業式は、先生、有意義な三年間どうもありがとうっていう儀式だけど、私たちには少しもそういう気持ちが沸かなかった。学校は人間を枠にはめたりふるいにかけたりするだけで、ほんとうに教えるべき事は何も教えないところだと思えた。それなのに、建て前だけで感謝するのはおかしい。私たちは面白くなかった、不満がいっぱいの三年間だったことを示そうじゃないかという、ただそれだけで」
「でも私から見たら、青木君たちのやったことはとてつもなく大それたことでした。なのに卒業式の後、校門のそばの食堂で、青木君平気な顔して親子丼食べてたんですよ」
「いやあ、そんなことまるで覚えてないねえ」
 と言って、私は思わずまた少し笑った。
 謡子は、中学校の卒業式の日、私が仲間たちと校門にポスターを張り出して式に参加しなかった、あの小さな事件の時に一緒にいたと言うのだが、私の記憶の中から謡子の姿は完全に消えていた、というよりも、私は事件を起こしたときの気持ちこそ、すぐにはっきりと思い出すことができたけれど、確か十人ほどいたような気がする、ポスターを張り出した三年生の仲間の名前さえ、言えなくなっていたのだ。
「木野さんは阪大に行ってから、少しの間学生運動をやってたんですけどね。井上君はね…」
 そんな私の当惑をよそに、謡子は、卒業式の日、一緒にいたという少年少女の名前を次々にあげていき、私の記憶はさらに少しずつ、くっきりしたものになっていった。たしか私たちは、学校近くの誰かの家に上がり込んで、思い思いの言葉を画用紙に、一人ずつ書いたのではなかったか。「この学校は本当の事を教えない学校です」と書いた子がいた。「安保反対!反戦平和」と書いた子もいた。校門にポスターを貼るだけの約束だったのだが、私は事を起こしてしまうと式に出る気をなくしてしまった。
同じ気持ちになった四人で、校門を入ったところの丸い噴水の白い縁に、卒業式の間じゅう腰掛けていた。ポスターを張り出したとき、やめさせようとやってきた何人かの教師たちも式場に行ってしまい、もう回りには誰も居なかった。卒業式が行われている左手の体育館からも右手の校舎からも、物音は一つも聞こえてこなかった。高揚する心と取り残された心細さがないまぜになった奇妙な心持ちで、四人とも押し黙っていたのではなかったか。
「あなたが思っていたほど、内心平然としていたわけじゃ、なかったかもしれませんよ」
 と私が言うと、謡子は、
「そんなことありません。私は、大変なことが起った、青木君たちが大変なことをしたって、式場の中でずっと興奮してたのに、式が終わって外に出たら、皆まるで平気な顔してるのよ。なんて人たちだろうって思ったんだから」
 そうきっぱり断言するように言い、それから、冷めてしまったテーブルの上のコーヒーに、初めて手を延ばした。肩近くまである髪を自然に分けたのが丸い額に掛かって、おおぶりなメガネの向こうで瞳が輝いていた。再会してまだいくらもたたないというのに、ずっと親しい友人だったような態度で、十五年前のできごとをまるで昨日の事のように話し続ける謡子を、私は半ば呆然と、そして半ば夢の中にいるような心持ちで見続けていた。
「卒業式のすこしあと、四月初めの扇町公園の集会に一緒に行ったんだけどな。集会に来た人の中で私だけがスカートをはいていて、ヘルメットをかぶってデモする青木君を見たら怖くなって。それが、私の参加した最後の集会だったんですけれど」
 大阪キタの盛り場から、歩いていける距離にある殺風景な公園は、当時はよく集会に使われて、学生や反戦派労働者が集まった。京都から出かけて行ったその集会で、たぶん、私ははじめて党派の隊列に加わり、ヘルメットをつけてデモをしたのだ。高校生になったばかりの少年と中学生の少女が、同じような年齢の仲間と一緒に、日米安保体制粉砕をかかげる集会に参加する、デモに加わる、そういう時代だった。あの頃、社会のピラミッドを支える象徴として、解体すべきものとして、学生たちの手でバリケード封鎖された多くの大学が、反乱の息切れを見透かす権力者の呼び入れた機動隊の力で「正常化」されていく一方、異議申し立ての運動は高校生へと広がっていった。
卒業式を「粉砕」するのは、反乱する高校生のあいだでよく行われた闘争で、早熟な中学生だった私たちは、それに影響されたのだ。当時、無党派市民の反戦運動のセンターだったベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)が出していた「週刊アンポ」という雑誌に、「全国闘う中学生連帯」というグループが結成されたという記事が載っていた記憶がある。中学生が社会的な闘争に参加してくることも、稀だったけれどなくはなかったのだ。
 あの公園は夜になるとオレンジ色の照明灯がともり、その光を受けると、赤、白、青など、思い思いに塗り分けられたヘルメットはみな、黒から白にいたるモノトーンになってしまった。私は、オレンジ色の光の中で暗灰色になった数千のヘルメットが、隊列を組んでジグザグデモをして、鈍くキラッ、キラッと光っている、そうした当時の風景を思い出していたが、その風景のどこにも、スカートをはいた少女の姿は浮かんでこなかった。
「デモに行けないように、父親に軟禁されてしまって、相談したいって青木君に電話したんです。そうしたら、それは自分の事なんだから自分で解決しなさいって、会うのを渋るから、ああ、嫌われてるなと思いました」
「あの頃はまん前しか見てなかったから。ためらう人や弱い人の事は、まるで考えられなかったんです。だから覚えてないんですね、きっと。そんなふうでなくなったのは、党派といさかいを起こして、高校をやめてこっちに来てからです。定時制高校を卒業してから国鉄に入ったんですけど、東京で出会ってたら絶対に忘れることはなかったですよ」
 そう弁解したけれど、私はその後ずっと、「あなたは私を覚えていなかった」と非難されることになる。
「それにしても、私が国鉄で働いていることが、よくわかりましたね」
 と聞くと、
「青木君が駅で切符を切っているらしいという話は、最初広瀬君から聞いたんです。彼も確実な話かどうか分らないみたいでしたけど。それから、いろんな人に聞いて」
 と、謡子は意外な名前を口にして答えた。広瀬というのは中学のときの私の一番の友達で、やはり卒業式の事件を起こした仲間だった。あの時代、「のうのうと生きる自分自身が腐敗した社会を支えている」といった考えが広がり、「自己否定」という言葉が、反乱する若者たちの間で、キーワードとして語られた。そんな時代の風潮の中で、広瀬は、一時期、「俺は高校に行かないかもしれない」と言って私を驚かせた。高校から大学へ、そして社会の中のしかるべき地位へと、階段を昇っていく自分自身の行動こそが、社会のピラミッドを支えているのだという観念が、多くの若者の心をとらえていた。腐敗した社会にかわる「もう一つの世界」が、権力からも金力からも、そして知識からも疎外された民衆の闘いから生まれてくると確信した多くの若者たちにとって、自分自身の中にある「上の学校へ、いい学校へ行きたい」という心こそ敵だった。「もう一つの世界」をめざして、腐敗した社会には与しないという決意を込めて、多くの若者が、大学から、高校から、飛び出していった。
 中学三年生だった私や広瀬や、そしてもう名前も顔も忘れてしまった仲間たちにとって、目標だと教えられてきた当の大学が反乱によって機能を停止し、学生自身の手によってバリケードで封鎖され、ピラミッド社会を支える象徴として糾弾されているというのに、そうした現実を前にして何の疑問も持たず、ひたすら受験勉強に打ち込んでいるように見える級友たちの生き方は、間違っているように思えた。
競争社会、ピラミッド社会を乗り越えた平等な社会、戦争や差別のない自由な社会はどこにあるのか、自分たちはそうした社会をつくるために何をなすべきなのか、まだほんの子どもだった私たちは、しかし私たちなりに考え、議論したものだ。「おまえら中学三年なんだぞ。早く帰って勉強しろ、勉強」。窓から顔を出して叱りつける教師の声を無視して、私たちはくる日もくる日も、校舎に囲まれた中庭に居残っては話し続けたものだ。
結局、広瀬は私たちの中学校から続きになっている、ある大学の付属高校に入った。どんな経過があったのか、どこで彼が決心を変えたのか、はたまた考え方を改めたのだったか、わたしはまったく覚えていなかった。覚えていたのは、高校に入ると広瀬がすぐに遊びだし、マージャンばかりやっているという噂を聞いて、公立高校を選んで交わりの途絶えた私が、心配したことだけだった。
「広瀬君も弁護士になっているんです。裁判所でばったり会って喫茶店で話したら、あの頃は政治の時代だったけど、今は経済の時代ですねって言うのよ。コーヒーぶっかけてやりたくなったわ」
 中学時代の親友が弁護士になっていると聞いて、私は胃の中が一瞬熱くなったような気がした。時代と折り合っていった者に対する、謡子の激しい敵意に私の感情は重ならず、弁護士になったという十五年前の親友に嫉妬している、自分自身の心の動きを感じていた。しかし私は、
「私もそう言わないで良かったですね」
 と言い、謡子は晴れやかな顔をして、
「ほんとうに」
 と言ってから、無心そうな笑顔を返したのだった。
「酒でも飲みに行きますか」
 頃合いを見計らって誘うと、謡子は嬉しそうな素振りとともに同意した。私は謡子を炉ばた焼き屋に連れていき、今度はカウンターに並んで座って話し続けた。謡子は飲んでも飲んでもまるで酔わない。私はそんなに酒の強い女を見たことがなかったが、それは、謡子が異常に緊張していたせいだったということを、後になって知った。私のアパートに来るようになってからは、少し飲むとボーッとしてしまうようになったから。それでも、日付がとっくに変わってしまい、タクシー乗り場まで送っていく頃には、歩いたせいもあってさすがに酔いが回り、車に乗り込む足元がふらついた。私のほうもだいぶ怪しくなっていて、謡子の体をドアから押し込むようにしながら、
「幻想が崩れたでしょう。いいことだよ」
 と大声で怒鳴ったが、再会したこの日に、私はもう、謡子を自分のものにしたいと思っていた。

     *

 それから二日後、私は応援に行かされた駅の改札口で、堀之内と一緒に切符を切っていた。
「ねえねえ、青木さん」
 向い側の枠で切符を切っている堀之内が、長い顔をうつむき加減にしたまま上目遣いに私を見て、粘りつくような口調で言った。
「何だよ」
 私は切符を切るパンチの手を休めないまま、目線を上げて堀之内を見た。手足が長くて背のひょろっと高い堀之内が、ステンレスでできた改札口の楕円形の枠に入っている姿は、いかにもバランスが悪い。無理やりに手と足を折り畳んだような恰好で、丸い椅子に半分だけ尻を乗せて猫背になって、それでも、手元に来る切符を一瞬左手にパッと受け取ると同時に、カチンとパンチを入れて返していく手付きは慣れたものだった。もう三十分もすると改札口の内も外も、競輪帰りの客で歩くことさえままならない混雑になるのだが、まだ、向い合せに座って切符を切っているわれわれのあいだを通り抜けていく、それらしい男たちが少しずつ増えてきたところだった。
「ねえ青木さん、この前、センターに電話してきたっていう女と会った」
 どうせそんな事だろうと思った。
「まあな」
「へー、やっぱり」
 堀之内は冷やかすような口調で言い、身を乗りだすようにして続けた。
「それで、どうだった」
「ちょっとな」
「ちょっとな、だけじゃ、分らないじゃない」
「実はな、俺にもよく分らないんだよ」
 冗談めかして答えたが、それは私の正直な気持ちだった。もう、とっくに一人になったと思っていた。ずっとひとつの方向に、誰よりも遠くまで来たのだと、そう思っていたのに。
 一九七〇年は日米安保条約の改定される年で、日本中が賛成と反対に二分されていた。まだアメリカの施政権下にあった沖縄の基地から、B52戦略爆撃機がベトナム全土の絨緞爆撃に向けて、ひっきりなしに飛び立っていた。戦争の記憶は今のように風化せず、安保条約の改定で、日本がベトナム戦争にますます加担することになるという危機感と、むざむざそれを許すことは悪だという倫理感が、多くの若者の心をとらえていた。その年の四月、高校生になるとすぐ、新左翼の街頭闘争にのめり込んでいった私は、何度か卒業式の仲間たちを集会に誘ったがうまくゆかず、そして、いつのまにか彼らのことを忘れていた。それから年月は流れ、いつしか私は三十一歳になっていた。もうとっくに一人になったと思っていたのに。そこに、一人で来たはずのはるかな道の眼前に、突然、謡子は何の前触れもなく、時代を越えて飛び出して来たのだ。
「半年前に司法研修所を出て、虎ノ門にある事務所に入ったんです。三里塚とか左翼の事件もいくつかやっています。日和見を決め込んで弁護士になったんだから、俺たちに奉仕して当然だって演説されたり、逆に先生、先生っておだてられたり。だいたい左翼には学生の時からあんまりいい思い出はないんです。だけど、十三歳の、あの卒業式の時の気持ちを忘れるなって、そう思い続けてきました」
 それだけ言うと、テーブルの向う側からまっすぐ私を見た謡子の顔が浮かんだ。
「おい」
 突然耳の横で声がして、われに返ると目の前に黄色い切符があった。黒いジャンパー姿の中年の男が、顔面に怒りを浮かべて切符を突き出していた。
「あ、すみません」
 うろたえながら言って、切符を受け取りパンチを入れると、男は私の手から切符をもぎ取るようにしながら、
「ぼっとしてんじゃないぞ」
 そう言い捨て、肩をいからせて改札口を通っていった。向い側で堀之内が大口をあけて笑っていた。
「だめだよ青木さん。自分の世界に入ってちゃ」
「いや、そんなわけじゃないんだけど」
 見透かされた私は取り繕うが、堀之内は攻撃の手をゆるめない。
「そんな、ぼうっとするほどいい女だったの」
「うるさいなあ」
「中学校の時の、二年後輩なんだって」
「いいだろう、もう」
 堀之内と一緒の勤務に当たってしまったことを恨めしく思いはじめた時、十メートルほど先の券売機の並んでいる所に、赤い筋の入った制帽をかぶって立って、十分ほど前から、ちらちらとこちらをうかがっていた助役が、すうっと近づいて来るとわれわれの目の前に立った。
「君たちさっきから喋ってばかりいるね」
「え、そんな事ないですよ」
 堀之内がとぼけたような、尻あがりの妙な声を出す。
「何言ってるんだ。ずっと見てたんだよ。真面目に仕事しないと機動センターに報告するよ」
 堀之内の態度が気にさわったようで、さっと顔面を紅潮させた助役は、それだけ言うとくるっと背を見せて券売機の方に戻っていった。その後ろ姿を横目でにらみながら、
「うるせえんだよ。ぶっ続けに二時間も切符切らされりゃ、話もするさ」
 そう言った堀之内の口調は、それまでと、うって変って棘々しかった。競輪のある日の駅は大混雑で、私たち二人は応援に出されていたのだが、応援に行った私たちだけが、忙しい時間帯の間、ずっと改札口で切符を切るように作業ダイヤが作られていた。
「何が報告するよだ。公平なダイヤ作ってから言え、そんなことは。ねえ、青木さん」
 怒りのおさまらない様子で堀之内が言った。
「そうだよな」
 と私は答えた。
「知ってますか。ここの駅の改札、まだ半分くらい国労なんだよ。それがみんな、組合バッチも外しちゃって当局の言いなりじゃないか。機動センターにきつい仕事押しつけて楽してやがって」
「怒るなよ。バッチ外しちゃった奴の気持ちも分るだろう」
 そうは言ったが、私にも堀之内が悪態をつく気持ちはよくわかった。
 政府の計画では国鉄の分割民営化まであと一年半足らずだった。分割民営化とともに、三十万人の国鉄労働者は二十万人に削減されることになっていた。政府と国鉄当局は、三人に一人が首というまったなしの現実を突き付けることで、職場に大きな力を持ち続けてきた国労を解体しようと、やっきになっていた。駅の人員削減で職場を追われた国労組合員ばかり三十七人が、貨物部門の縮小で機能をほとんど停止した、貨物駅の廃屋ビルに新設された「新橋要員機動センター」に収容されてから半年がたっていた。管理者に言われても、「私は分割民営化に反対します」と書いた黄色いワッペンを、制服の胸から外さなかった者ばかり、大半が二十代半ばの若者だった。要員運用の効率化という口実で、決まった職場と決まった仕事を奪われた私たちは、もう半年のあいだ、ラッシュの尻押しとか、忙しい職場の応援とか、そんな仕事に追い使われて来たのだった。
「あいつらは人種が違う。あいつらのようになったら新会社に行けない」。しばらくすると、応援に行かされた駅で管理者たちが部下にささやく声が、どこからともなく耳に入るようになった。われわれを仲間として扱い、かばってくれる駅もあったが、国労の活動家があらかた配置転換されてしまったような職場では、組合員までがわれわれを「違う人たち」として扱って、そんなとき込み上げてくる憤まんには、どこか、やり場のない悲しみのようなものが混じっていた。「分割民営化反対」のワッペン闘争はだいぶ前に中止されたが、当局は、こんどは制服についている組合バッチを問題にして、かさにかかって締めつけてきた。一センチ四方の組合バッチすら、襟元に付けることのできない職場が増えていた。
 いつのまにか改札口は乗客の波で埋っていった。券売機の並んだところで、さっきの助役が客の波に向って、整列するようにと何か怒鳴っているが、どれもくすんだ色の服を着た中年の男たちばかりの、ぐわんぐわんと響いてくる騒音と人いきれの中で、声は届いてこない。改札口に押し寄せてくる男たちの持つ切符を三十分間も切り続けていると、右手から感覚がなくなってくる。向い側の堀之内の長い顔も、うんざりしたという表情さえ通り越して、能面のように固く感情のないものに変っていた。あと三十分すれば客が減りはじめ、一時間もすれば嘘のように静かになってしまうのは分っているのだが、コンコースにぶら下がっている時計の針は、何度振り返って見ても、もうほとんど進まなかった。手に持っているパンチを投げ出したくなる衝動を押さえながら、私はひたすら切符を切っていた。
 競輪場から引き上げてきた男たちは、すべて例外なく疲れ切った表情で、青黒い顔色をしていた。何人かに一人は儲かった者もいるだろうに、表情の輝いている者がただの一人も居ないのはなぜだろうといつも思った。財布がはち切れるような大金を持ってきた者も、なけなしの札何枚かで勝負にきた者も、皆、金の遣り取りに神経をすり減した、そのストレスが顔に表れるのだろうか。
「お客さん」
 いきなり堀之内が大声を出して、通り抜けようとした男の肩口を掴んだ。
「何だよ」
「切符どうしました」
「切符? 切符は連れが持ってたろう」
「どの人です」
「だから」
 もぐもぐと何か言ったが、連れと呼ばれる者がいるはずもなく、堀之内は、
「切符買ってきて下さい」
 と言うと、寄せてくる客の波に逆らって、男を改札口から押し出した。押し出された男は、何かわけの分らない悪態をつき、改札口の前にベッと唾を吐いてから向こうに行ってしまうと、もう戻ってこなかった。帰りの切符代まで擦ってしまったのかもしれない。
「なめてんじゃないぞ」
 次々と手元に差し出される切符から目線を上げないまま、堀之内が小声で吐き捨てるように言った。不正乗車されたからといって、別にわれわれの懐が痛むわけではないのだが、自分の立っている改札口を不正な手段で通り抜けられると、馬鹿にされたような気がして腹が立つ。高慢な助役への怒りと不正を指摘されて開き直った客への怒りが重なり、そして、次々と津波のように押し寄せる切符それじたいへの怒りが沸き上がって、コントロール不能になるギリギリの線上にいることを示すせっぱ詰ったものが、堀之内の顔面を膨れ上がらせていた。

 次の日の朝、出勤して更衣室で制服に着替えた私が、詰所の中に入ると、ガランとした詰所に、四、五人の仲間たちが思い思い、折り畳み椅子に座ったり、長椅子に寝そべったりしていたのが私の方を見た。
「やあ、青木さんおはよう。元気ぃ」
 人の顔を見ると、語尾を上げる変な口調で「ゲンキイ」と聞くのは下重の口癖で、私は、
「まあまあな」
 と適当に答えて、さあ、どこに座ろうかと見回してから、窓際の席に場所を確保した。五階建てビル最上階にある詰所は二十坪ほどの広さで、片隅に流しとガス台、食事用のテーブルが、衝立に仕切られて置いてある他は、ただ、細長いテーブルが前から順に三列に並べられている間に、折り畳み椅子やビニール張りの長椅子が置いてあるだけの、がらんとした部屋だった。壁に塗られた薄緑色のペンキは埃っぽくくすんで、床に張られた茶色のビニールタイルもところどころはげ落ちていた。ビルは廃屋となってから一年半が過ぎていた。
私たち、新橋要員機動センターに配属された労働者が、半年前から使っている最上階以外の、すべての階の部屋という部屋に、廃棄された備品がうずたかく積み上げられ、埃にまみれている光景を、いつか誰かが「まるで蜘蛛の巣城だ」と言ったことがある。たしかにそれは落城し蜘蛛の巣の張った戦国の城のような場所だった。窓の外の風景を、見るとはなしに見ている私に下重が言った。
「青木さんこの間、山下勉が来たとき、いたの」
「いいや、居なかった。けど、すごい人数だったらしいな」
 私が答えると、長椅子に寝ころんでいた谷がむっくり体を起こして言った。
「いや、すごいすごい。屋上に入りきれないほど来てさ。見にいこうとしたら、所長のやつ、血相変えて止めるんだよな」
 某私大の教授だという山下勉は、国鉄の分割民営化を推進している臨時行政調査会の部会長だった。国鉄の累積赤字問題の解決は分割民営化以外にないと声高に発言し、労働組合敵視の発言を繰り返す彼は、当時はマスコミの寵児で、仲間たちは「やましたべん」と軽蔑を込めて呼び捨てた。その「やましたべん」が、運輸省や大蔵省の役人を大勢引き連れ、国鉄本社幹部の案内で、私たちの詰所のある廃屋ビルの屋上を訪れた。汐留駅の土地だけで何兆円で売れるという話が流布されていて、「やましたべん」は、国鉄の持つ遊休地の処分と株式の放出で、二十数兆円の累積債務の大半はなくなるというようなヨタ話を繰り返していた。隅の方で聞いていた根津が話に加わってきた。
「随分寂しくなっちゃったけど、だけど、まだ働いてるのがいるんだぜ、この駅は。そこにやって来て、高い所に登って売り飛ばす算段するなんて、許せないよな」
「殿様気取りだよな、まったく。とんだバカ殿だ」
 と谷が言った。銀座のすぐ横にある広大な一等地を一望にして、彼らはさぞ舌なめずりをしたことだろう。そして、廃屋となったビルの屋上に立った「やましたべん」の脳裏にも、つき従ってきた役人や本社幹部の脳裏にも、今もまだ、貨車に飛び乗り、旗を振り、ヘルメットの下に汗を滲ませながら働いている、汐留駅の労働者のいることは、思いも浮かばなかったことだろう。
 私は再び窓の外の風景に目を転じた。窓の下には、扇型に広がる何十本もの引き込み線と、幾つもの貨物用プラットホームのある広大な構内があったけれど、しかし、その時刻、動いている貨車も、入れ替え用の機関車も、プラットホームで作業するフォークリフトも、つまり動いているものは一つも見えなかった。戦後、日本経済の復興を支えた国鉄の貨物輸送網は、トラックとの競争に敗れて大幅な削減が進んでいた。私たちが廃屋となったビルの中のだだっ広い部屋に放り込まれたとき、かつては東西を結ぶ貨物輸送の最重要基地だった汐留駅は、もうほとんど機能を停止していた。発着する貨物列車は日に上下一本だけになってしまい、最盛期には、汗にまみれて働く人々と、様々な種類の貨物であふれかえっていた構内は、いつもがらんとしていた。無人に見える構内の上に、秋の名残の白い筋雲がところどころに浮ぶ青空が、部屋の一方の、腰から上全部を占めるガラス窓を透して広がっていた。
 引戸の開く音がして金森が入ってきた。金森は、仲間たちの中では年長で、私より幾つか年上の組合員だった。その日は私と同じ仕事だったので、
「金さん、今日はよろしくね」
 というと、
「ああ、よろしく」
 と答えたが、横の方から谷が、
「金さん、また横浜の通対かよ。相変わらず楽するなあ」
 と非難がましく言った。その日、私と金森は通勤対策という仕事だった。夜五時半から七時まで、ラッシュの横浜駅で尻押しをするだけの仕事で、十時過ぎに出勤して、横浜駅に向かう夕方までは、要員機動センターで待機しているのだった。
「別に楽してるわけじゃないさ。腱鞘炎だから改札のパンチは持てないんだよ」
 という金森に、谷は、
「何言ってんだよ。この間だって重い荷物担いで三日も山に行ってた癖に、よく言うよな」
 とまだ食い下がる。
「うるさい奴だな、まったく。好きで来たわけでもない、こんなところで仕事しようとしたら、体が拒否するんだよ」
 金森は半ば本気で怒りかけていた。谷は、
「いや、別に非難してるわけじゃないからさ」
 と金森の怒気にあてられて、言いわけがましい口調になった。金森が、
「非難してるじゃないかよな」
 と誰にともなく同意を求めるが、誰も知らないふりをしていた。しょうもない口喧嘩に巻き込まれてはつまらない。
 新橋要員機動センターに飛ばされてきた組合員の中でも、金森は強硬派の代表格だった。「収容所に強制配転した当局が悪いのだから、元の職場に帰すまでは、当局に一切協力すべきではない」と主張して、徹底的に抵抗した。制服を着てもネクタイもせず、ネームプレートも付けず、組合のバッチだけは人一倍大きなのをつけて、最初の二ヶ月は一切の仕事から排除された。それでも頑として譲らないので、手を焼いた当局は金森とその同調者と見なした七人の仲間に埠頭の貨物駅への出張を命じ、無限にある構内の草むしりをさせるという挙に出て、結成されたばかりの国労新橋要員機動センター分会をあわてさせた。われわれは組合の上部に不当な仕打ちを報告すると、弁護士と一緒に貨物駅に押しかけたり、地域の労働組合と一緒に抗議集会を開いたりした。「不当な懲罰労働だ」と労働委員会に提訴して、草むしりをやめさせるまでに三ヵ月かかった。草むしりから帰ってきても、執行部の多数が「抵抗線は維持しつつ、与えられた仕事はこなして、働きやすい職場にしよう」という主張でまとまったのに異議を唱えて、「収容所を働きやすくしてどうする」と言った。腱鞘炎だから改札はできないと管理者に告げて、駅での改札には行かなかった。
 隅の方に前の日私と一緒に助勤に行っていた堀之内が長椅子に寝そべって、ヘッドホンステレオを耳にあてていた。のそっと起き出すと、ヘッドホンを耳から外して、
「あーあ、俺も腱鞘炎になろうかな。もう、競輪の助勤はうんざりだもんな」
 と言いながら、私の方を見てニヤリとした。
「あれ、青木さんじゃないの。昨日はどうも」
 なにか嫌な言い方だなあと思い、
「ああ」
 と生返事を返すと、
「聞いてくれる。青木さんさ、昨日、競輪の助勤で女のこと考えてボーッとしててさ、切符切らないから客のおやじに殴られたんだぜ」
 と大声で言った。
「ほんとかよ」
「なさけねえ」
 というような声があちこちから飛んできた。
「嘘言うんじゃないよ。殴られたりしてないだろう」
 と私は言ったが、堀之内は、
「照れないでもいいって」
 とまた言った。下重が、
「このあいだ、電話かけてきたっていう女のことかよ。まったく、女の方から男の職場までよく電話してくるよな」
 と言った。私は言った。
「女から男に電話かけたって、悪くはないだろう」
「そりゃ、かけてこられた青木さんはいいだろうけどさ」
 と下重が言って、言い返そうか、どうしようか、言葉に詰ったところで、引戸の向こう側から、どやどやという何人かの足音と喋り声が聞こえてきた。横浜駅での朝の尻押しを終えて帰ってきたのだ。引戸が開いて、入ってきた仲間たちは口々に朝のあいさつの言葉を発してから、ある者はテーブルに置いてあるマンガを物色し、ある者は詰所にいた仲間と何やら話しはじめ、また、夕方まで快適に過ごせる椅子を確保しようと、座る場所をめぐって言い争う声まで聞こえてきくると、その日、昼間いる者の全部そろった詰所の中は、随分とにぎやかになった。

 「待命」、つまり命令を待っている時間と名付けられた、強制された怠惰の時間は無為に過ぎてゆき、ガラス窓の上半分いっぱいに広がっていた、筋雲のかかった青空はいつしか灰色に変わっていた。詰所の隅に衝立を隔てて置いてある食事用のテーブルで、谷と将棋を指していた根津が、
「さあ、これで勝ちだな」
 と言い、谷が何やら奇声を発して負け惜しみを言うのは無視して立ち上がると、
「青木さん、そろそろ行こうか」
 と声をかけてきた。私は読んでいた文庫本を閉じて一度伸びをした。
「金森さん、どこかな」
 と言うと、根津はだれも使っていない長椅子を顎でさして、
「さっきまで、そこに寝ころがってたけどな」
 と言った。姿の見えない金森は放っておいて、私たち二人がロッカー室で支給品のショルダーバッグに、帰りに着替える私服、ホームに立つときにかぶる帽子、白いナイロン手袋、笛、それに横浜駅で働いた事を証明するために印を押してもらう「助勤命令書」という、尻押しの七つ道具を詰め込んでいると、長身の金森が廊下からぬっと首を出して、
「あれ、もう行くの。早いんじゃない」
 と言った。根津が、
「そろそろいい時間ですよ。それより金さん、どこ行ってたの」
 と言うと、
「ちょっと抜け出して本屋に行ってた」
 と言い、たぶん山の雑誌だろう、大判の本が入った茶の紙袋をかざして見せた。それから、
「早く行っても早く帰れないよ」
 とまた言ったが、もう準備のできそうな私たち二人の様子を見て、
「まあ、いいか」
 と言うと、自分も同じように支度を始めた。
 私たち以外、誰も使っていない埃っぽい階段を、ビルの五階から一階まで降りて地上に立つと、国道を横切れば五分で新橋駅だった。紺色の制服を着て、それぞれ肩に大きなビニール製のショルダーバッグを引っかけた私たち三人は、もう通い慣れた道を駅に向かった。要員機動センターに飛ばされた半年前まで、私と根津はその新橋駅のホームで働いていたのだった。だから改札口を通るたびに今日の出番は誰だろうと気になった。駅にいた頃、親しくしていた同僚や先輩なら、私たちの顔を見るたびに、「どうしてる」とか「元気か」とか、何かと気をつかって声を掛けてくれるのだが、いち早く当局側になびいた人間、休日まで返上して「増収運動」なんかをやっているやつだと、当惑したような、少し煙たそうな顔をして、「やあ」とか「どうも」とか、おざなりのあいさつを返してくる。そんなやつの座っている改札口を通った後は、いつも決まって苦い汁を飲んだような気分になった。
 根津が、この時間なら横須賀線の方が早く来ると言うので、横須賀線に通じる地下の改札口に回ると、川辺さんが座っていた。見事に禿上がった頭頂部は制帽で隠れていて、禿げた頭を環状に取り巻いている白髪混じりの毛が帽子からはみ出していた。小柄な川辺さんは私たち二人を見つけると、
「よう、今日はご両人お揃いかい」
 とおどけた感じで声をかけてよこした。
「そうなんです。これから横浜で尻押しです」
 と言いながら、会釈して改札口を通り抜けようとすると、
「今日の仕事はそれだけなのかよ」
 と言い、立ち止まった私がそうだと言うと、
「いいよな、代わってほしいぐらいだ。俺なんか、これからここに三時間出っぱなしだぞ」
 と続けた。
 分割民営化に向けて、数年前まで三十万人でやっていた仕事を、二十万人弱の体制にする人員削減が強行されていた。駅でいちばんのやり玉に上がっていたのは改札口の仕事で、どこの駅でも仕事量が確実に一・五倍くらいに膨れ上がって、悲鳴に似た声があがっていた。その一方では、私たちのように決まった仕事を奪われる者も、意図的につくられ始めていたのだが。そして国労にはもう、そうしたことを規制する力がなくなっていた。
「分割民営化反対のワッペンを一人だけ付けて、朝の点呼で接客五大用語の唱和しなかったら、明日にでも来られますよ」
 と根津が笑いながら言った。川辺さんも笑いながら、
「考えとくよ」
 と言ったが、どこか表情と声に張りのないのが気になった。
「それじゃ、まあ頑張ってください」
 と私が言い、川辺さんも
「お前らもな」
 と言って、私たちは改札口を通過した。横須賀線の発車する地下ホームに降りる長いエスカレーターに乗りながら、根津に、
「川辺さん、元気ないと思わなかったか」
 と聞くと、
「青木さんもそう思った。このあいだ会ったときもあんなだったんだ」
 と言った。エスカレーターの一つ下の段に立っていた金森が、私たち二人を見上げるようにしながら、
「脅されてるんじゃないか。増収とかQCで」
 と言った。そうかもしれなかった。川辺さんは国労新橋駅分会の執行委員で、国労は、明番のサービス残業でやる増収活動やQC(品質管理)運動には反対だから、分会の役員はそんなことには協力しないのだが、しかし、国鉄当局はそれを踏み絵に、国労の活動家をどんどん配置転換していた。当局は、東海道新幹線と並ぶ稼ぎ頭で、国鉄の顔でもある山手線に不良職員はいらないと言い、自ら「山手線クリーン作戦」と名付けた一連の配置転換で、およそ百人の国労組合員を、山手線の各駅から遠隔の駅に飛ばしたのだが、たとえば四十に手が届こうという年になって、知らない駅に転勤するのはきつかったから、配転か屈服かを迫られて当局側に行った人を、ずいぶん私は知っている。
「勝負っていうのは、びびったら負けなんだよな。何か言われて、目の色曇らせたら、もう、とことんつけ込まれるんだから。ガッと言われたら、ガッと返さなきゃ駄目なんだけどな」
 と根津が言った。根津に言わせると組合運動も勝負の一つだった。
「おう、いいこと言うねえ。好きだなあそういうの。さっきの人に教えてやれよその言葉」
 と金森が言い、根津は、
「悪いけど、私は勝負にはこだわりますからね」
 と胸をそらせた。私は、
「そうだよな。俺が目の色曇らせて手が震えたんで、マージャンで幾ら根津に取られたかわからないもんな」
 と新橋駅時代のことを言い、根津は、
「また、そんなことを言う」
 と、途端にへなへなした顔つきになった。私は笑ったが、目線が少し下を向いたような川辺さんの表情は、頭の片隅に残ったままだった。
 東京駅の地下ホームから発車する、ブルーとクリーム色に塗り分けられた横須賀線の電車は、新橋駅の地下ホームを通りさらに地下トンネルを走ってから、品川駅の手前で地上に出ると、品川駅からは旧貨物線の線路に乗り入れる。東京と横浜を海沿いの直線で結ぶ東海道線に比べると、内陸部を迂回するように横浜まで走り、それから三浦半島の、鎌倉、逗子、横須賀へと繋がっている。午後五時前に私たちが乗った電車はまだ混み合っていなかったが、向かい合わせになった四人掛けの席も、ドアの横の三人掛けの席もあらかた埋まって、背広姿のサラリーマンが通路のあちこちに立って、派手な見出しの二色刷りの夕刊紙を読んでいたり、ぼっと窓の外を眺めていたりした。よほど空いている時なら別だが、制服を着ていると座席に座るわけにはいかない。私たちはめいめい足元にショルダーバッグを置き、ドアの近くに固まって立っていた。
電車は東京南部の住宅地を、高架上の東海道新幹線と一緒に南西に走ったあとで、多摩川を渡って川崎市に入ると、弧を描くようにして再び海岸の方へ向きを変える。電車の向きが変わると、晩秋の日の暮れ、雑然と建ち並ぶ工場と住宅がシルエットになりつつある、川崎の街の灰色の風景の向こう側に、日の落ちる茜色の空が低く広がっているのが見えた。電車の右側の空間が広くなりはじめ、線路にそって新鶴見操車場の、延々と続く構内が見えてきた。気がつくと、根津はその薄暗い風景に、ドアのガラスに額を擦り付けるようにして見入っていた。新鶴見操車場=鶴操こそ、根津が一生そこで働く気になっていた、本来の職場だったからだ。
「まさか鶴操がなくなるとは思わなかったもんなあ」
 根津が独り言のように言った。
 かろうじて廃止を免れている汐留貨物駅とは違い、新鶴見操車場は一年九ヵ月前に機能を完全に停止していた。貨物列車が引いてきた貨車の組成を行き先別に組み換えて、新しい貨物列車に仕立てて送りだす操車場は、国鉄貨物輸送網の要であり、東西の動脈と東北、信越、上越を結ぶ鶴操は、言わば要の中の要に位置していた。だから、自動車輸送との競争に敗れた国鉄当局が、あっさりと従来の輸送方式を廃止して、拠点間の直行便以外の小口貨物から撤退する、ついては全国の操車場を全廃すると提案した瞬間まで、鶴操で働いていた人々は、そこを追い出される羽目になろうとは夢にも思わなかったのだ。根津は、鶴操が全廃になると、私の働いていた新橋駅のホームに来た。その職場も一年でなくなった時、卒業した高校の先輩風をふかせて、面倒見てやるという助役の誘いを断って、分割民営化反対のワッペンをはずさなかったのが仇となって、私と一緒に要員機動センターにやって来た。その時、私は助役と組合の板挟みで悩んでいた根津と、長い時間話したことがあった。
「あそこが信号所。それからほら、あっちに見えるでしょう。あれが俺のいた詰所なんだ」
 仕事と野球で鍛えたいかにも頑丈そうなずんぐりした体と、にきび跡のあるごつい顔つきには不釣り合いな、あどけない子供のような表情で窓の外を眺めながら、根津は、夕暮れ時の、煙ったようにみえる空間のあちこちを指さして説明した。
電車は通常のスピードで走っているのに、線路の敷きつめられた鶴操の構内は、延々と続いて途切れなかった。数珠繋ぎにされた機関車と貨車が、何箇所かにまとめて止め置かれていたが、それらはもう、貨物列車として全国に向けて発車することはない。ただ解体されてスクラップになるのを待っている、鉄の固まりに過ぎなかった。機関車も貨車も、そして人間も、動いているものは一つもなかったが、しかしそれを見る根津の脳裏には、きっと人々が気を張って働いていた、当時の風景が浮かんでいるのだろうと思った。
 進行方向に小高い人工の丘が見えてきて、丘の頂上にある建物の間から、線路が地表に向かって扇形に広がっているのが見えてきた。
「あそこから貨車を流すんだろう」
 と私が聞くと、根津は、
「そう、ハンプって言うんです。あそこから流した貨車に飛び乗って誘導するんだけどね、飛び乗り損ねるとアウト。俺も貨車に引きずられて、死ぬって思ったことが、二度ほどありますからね」
 と言った。流れてきた貨車に飛び乗り損ねることは、即、足の一本、悪くすると胴から下そのものを無くすことにつながっていた。
「廃止の提案があったとき、駅長は俺たちの前で、仕事が最盛期の三分の一しかなくなったって言ったんだけどね、仕事仕事で追われてた時代は、いちばん人が死んだ時期なんだよ」
 電車に乗ってからずっと、手すりにもたれて山の雑誌を読んでいた金森が、その言葉を聞いて顔を上げると、
「命がけで守ってきた仕事を、奪われたってわけだよな」
 と言った。苦笑いの表情を浮かべながら、根津が言った。
「そこまで言うと、そりゃ大げさすぎますけどね。構内の仕事は覚えてしまうと楽だったしね。おれ鉄道高校でしょう。先輩の話なんか聞いてるから、国鉄に入ったときは、構内だけには行きたくない、死ぬかもしれないって思ってたんだけど、二年も働くと、これならずっと居てもいいやって、そうなるやつ多いんだよね、どこの構内でも」
「構内の仕事に合ってたわけだよな」
 と私が言い、根津は、
「そうですね。俺はやっぱり広い所で体動かしている方がいいですね。構内の仕事なら負けないって思ってましたから。客扱いは好きじゃないしね」
 と言った。
 ガタンガタンとポイントを越えていく音がして、ポイントの前で一旦徐行した電車が再びスピードを上げると、線路に沿って細長く延びた旧新鶴見操車場の姿は後方に去って行き、根津はもう、窓の外を見なかった。
 この日、横浜駅の東海道線ホームに立ってラッシュの整理をしていた根津は、駆け込み乗車しようとした中年のサラリーマンの鼻先で、合図燈で閉扉合図を送ってドアを閉めてしまい、言い合いになった。「なんで俺が走ってくるのが分かっててドア閉めるんだ」と無理難題をいう客に、根津が「あんたを待ってたら電車が遅れるでしょう」と言ったから、客が「あんたとは何だ」と怒りだし、助役もやって来てちょっとしたもめ事になった。客は憤慨したまま、駅長に言うとか言わないとか、捨てぜりふを残して次の電車に乗っていき、後でその話を聞いた金森から、「やっぱりお前は構内が似合っているよ」と笑われた。

     *

 それから数日後、私は謡子に長い手紙を書いた。そして返信はすぐに届いた。

 先日はどうも。
 電話で中学校の後輩だと言われ、どんな女の人だろうと考えて前日から動揺していたのですが、会ってみるとえらくすてきな人が十五年前の私を鮮明に記憶してくれていて、信じられないほど嬉しかったです。
 人は十五年もすれば、まして違う道をたどればお互いに変わってしまうし、お会いした時の私の姿はあなたの想像とはちがっていて、あなたが時々とらわれていた幻想を捨てることができたなら、それはいいことですが、今度は私の方に「言い足りなかったこと、話し足りなかったことがあるようだ。今の自分をわかってほしい」という思いが募って落ちつかなくなってしまいました。それで手紙を書きます。
「あの時代はいったい何だったのだろう」。先日も言いましたが、わたしにはまだはっきりとわかりません。しかし、あなたと私が共通の経験をしたあの時代から、われわれのうちの多くが、人生を規定するだけの力を受けたことは事実であり、人間が生きていくときに自分の過去から自由ではあり得ないとしたら、このことは考える価値のあることだと思います。言うまでもなくあの時、パリでもプラハでもベトナムでも、世界じゅうで変革への希望が表明されたことは間違いのないことで、日本の学生、青年労働者の闘いもその一部でした。早熟な中学生の心まで揺さぶったわけだから、あの時代の持っていたエネルギーが相当のものだったこともまた間違いのないところです。
 あの時代、若者たちはあらゆる既成の権威を拒否しようとしました。「いい学校には行かない」という私の選択もその一部でしたし、さまざまな集まりに参加することを止めようとする親の干渉さえ、私たちには、矛盾に満ちた今の社会を支える、敵の行動に見えたものです。学生や知識人のあいだでは、自分たちも既成の権威を支える側にいるという自覚から「自己否定」という言葉が使われ、早熟な私もすぐ「自己否定」主義者の仲間入りをしたのです。
 高校生になってすぐ、新左翼の運動に参加したのですが、私の行った高校は、普通科、商業科、家政科、農業土木科、農業科と五つにわかれていて、その順序に差別構造がありました。差別的な社会を反映しているのだと、私は思いました。また、部落解放研究会には、部落差別と闘う決意を固めた被差別部落の少年、少女が集まっていました。部落研で闘っていた彼らはもちろん「自己否定」的に闘っていたわけではありませんが、そのうえ「新左翼」的でもありませんでした。何のことだかわからないとおもいますが、勇ましいスローガンをかかげて、それを承認するかどうかを仲間に迫り、敵と味方を作りあげるようなやり方はしないということです。彼らは勇ましくはないが足元を見て、困難な差別と明るく闘っていました。新左翼党派の運動への疑問がわく一つのきっかけでした。
 このヘんのことは、長々と書いてもしょうがないのですが、つまり、こんなふうにして私はあなたと離れてから二年半後に、加わっていた党派から離れ、「労働運動に参加しよう」と考えて東京に出てきたわけです。当時、総評の労働者は、国労、動労、全逓などが政府・当局の組合つぶしに抗して、激しい職場闘争を繰り広げており、闘いは上げ潮でした。
 当時、ある仲間が「俺たちは学生のとき派手なバリケードストをやって、いったんは大学を乗っ取った。労働者がこれと同じことをやれば革命になると思って労働者になった」と言ったのを覚えていますが、もちろん、冗談半分の乱暴な議論ですが、当時の私たちの気持ちを良く表していたと思います。
 国鉄に入ったのが七四年ですから、私はあなたと離れてからの大部分を国鉄労働者として生きてきたことになります。既成の左翼にかわって、社会変革をめざす労働運動を作ろうとして国鉄に入ったわけですが、残念ながら思い通りにはいかなかったようです。総評労働者の闘いは七五年のスト権ストの敗北以来後退を重ね、現在、資本主義を公然と擁護する労使協調派の潮流が労働戦線を統一しようとしています。私たちは総評の中に小さな反対派をつくりましたが、総評じたいの危機の中で、新左翼の労働運動もまた、例外なく組織と運動の困難にぶつかっています。しかし、国鉄労働運動は私に多くのことを教えてくれました。国鉄労働運動と国鉄労働者から教えられることによって、闘い続けてきたと言ったほうが、いいかもしれません。労働者階級の革命的な役割という命題を、今は昔のように素朴に前提なしに主張することは出来ませんが、分割民営化で、三人に一人=十万人の首を切るという攻撃を前にしても、ひるむことなく、闘いつづける少くない仲間がいることは、たとえ首切りが貫徹され、国鉄労働運動が敗北したとしても、将来の希望の手掛かりになるでしょう。そしてまだ、勝つチャンスは残されているし、闘いの旗をかかげて生き続けるチャンスも残っているのです。
 こんなわけで、今、私の人生は転機をむかえています。動揺もし、考えることも多いこのごろですが、少なくとも、あなたと共に経験したあの時代から始まり、今にいたる生き方を清算するつもりはありません。あなたの考えていた私とは違ったでしょうが、あの頃の私を鮮明に覚えていてくれたあなたと、十五年後に私なりに胸を張って会えたことを誇りに思います。また、あの頃の私の行動が、闘いの側に立つ一人の弁護土を生み出す力の一部を担ったことを誇りに思います。十五年をとおして知ってくれる人がいたことは望外のよろこびです。「幻想が崩れてよかったでしょう」などときどっても、本心は「分ってほしい」という心でいっぱいだったのです。
 ぜひ、もう一度お会いしたいと思います。
 十五年前に頂いたというお手紙に返事を書かなかった責任において、返事をくださいとは言いません。
 では。
  一九八五年一一月一九目
 仁科 謡子 様
 青木 伸一

 お手紙、ほんとうにありがとうございました。何度も何度もくりかえして読みました。うれしくてしかたありません。
 あなたの歩んだ十五年、あなたの今おかれている現状、あなたの考え方を知り、感動しています。十五歳のあなたは、私に対して決して連帯を強要しなかったけれど、あなたの生き方じたいが私に与えた影響は強烈でした。そして十五年たってお会いして、あなたの社会に対する、人間に対する考え方が変わっておらず、十五歳の少年と同じようなみずみずしさを持っており、それに十五年の闘いに対する自信が加わっているのを知り、感動しました。私も紆余曲折を経て大人になり、今のあなたの考え方について少しは疑問を持つところがないではありません。しかし、大きな点において、あなたの考え方も生き方も正しい、と確信しています。むしろ、十五年も全く別々の人生を生きてきた人と、こんなにも多くのものを共有できることが不思議ですらあります。
 十五年前、あなたと私は違う道を選択しました。あなたは、「僕はエリートを拒否する」と言って、あの中学校を出ていきました。私は、あなたの生き方に衝撃をうけつつも、別の道を行きました。「いいところにお嫁に行きたい」と公言し、私のことを「あの人は普通じゃない。あの人は変わっている」「あなたは青木くんのことが好きだから、青木くんと同じようなことを言っているんでしょ」と言って排斥した同級生の女の子たちを徹底的に軽蔑すると、「断固、自分ひとりで男社会から自立するんだ」という決意がうかび、そして、勉強すれば、知性を把握でき、知性で世界を変えられるのではないか……などと不遜にも考え、そして高校、大学へとすすんだのです。確かに、当時の私の決意の成果は少しはあり、私は自分の選択した道を後悔はしていません。差別・抑圧的でない職場を得ましたし、知性で世の中を変えるという考えはまったく失敗でしたが、大学で友人たちから学習した、小説や映画の世界の楽しみ方は、私の生活を豊かにしてくれました。
 そういう意味で、私の個人的生活は現在Happyであるわけです。ただ、考えることは、ひとつには、私は個人的には非常にがんばってきたわけだけど,当然のことながら、女が管理職になっても、一人の女が女を搾取する側に回るだけで、何ら社会全体を変えることはできないのであり、自分に対する差別・抑圧がないだけで満足して、何ら社会に対する異議申し立てをしようとしない私は、あまりに怠惰なのではないか、ということ、もうひとつは、自分のカラの中に閉じこもりすぎて、他人に対する働きかけをしないでこのまま一生すごしてよいものだろうか、という疑問、弁護土としての職業はどの程度までこうした間題とかかわれるのか、といったこと…等々をぼんやりと考えています。
 そういうときに、あなたにお会いできたのは、私にとって非常にラッキーだったと思います。いやおうなしに、あなたと私の現在を考えざるをえなかったから。
 今の私が、今のあなたにできることはおそらく何もないと思うけど、私は今でも、幻想でなく、今のあなたを熱烈に支持しており、あなたの思想と行動に期待しています。そして、あなたをより多く理解していきたいと思っています。
 ぜひまたお会いしたいと思います。
 お会いできる時を楽しみにして暮しております。
   一九八五年一一月二三日
 青木 伸一 様
 仁科 謡子

     *

 私のアパートに謡子が初めて来たのは、再会してからひと月あまり過ぎた十二月のおわり、三度目に会った時だった。その日、昼下がりの喫茶店で、
「きょうはどこか広々としたところまで、ドライブがしたい気分だわ」
 と言いだしたので、
「それじゃあ湘南の方へ行きましょうか」
 と聞くと、さっと表情を硬くして、
「そっちはだめです」
 と言った。その時は理由を言わなかったけれど、彼の実家が湘南にあるからだった。
 私たちは東京駅でレンタカーを借りると、湾岸道路を走って千葉の方へ行った。適当なところで海辺に出ようと思ったのだが、海の見えるような広々としたところには行き着けず、どこなのか判然としない郊外のファミリーレストランで食事をしただけで、帰ってくる破目になってしまった。それでも帰り道、冬の日はとっぷり暮れてしまい、大きな橋に弓なりに張られたワイヤーや等間隔に建てられたポールに、点々とライトが灯る高速道路の風景を、助手席の謡子はとても綺麗だと言ってはしゃいでいたのが、いつの間にか満ち足りた寝顔を見せて眠ってしまった。東京に帰ってきて、会うたび深夜になるのはまずいと思った私が、
「今日はこれで」
 と言うと本当に悲しそうな顔をした。結局、私のアパートのある東京の南のはずれ、もう川崎に近い駅のそばにあった、今はもうないスナックに連れていくことになった。謡子はママに、
「中学校の初恋の人なの。勇気があって、賢くって」
 と真顔で言う。ママはあきれてポカンと口をあけ、私もにやにや笑っているほかなかった。だいぶ飲んでから、私は、
「一番古くからの友人である以上に、踏み込みたい気持ちでいっぱいなんです。いいですか」
 と言った。謡子は下を向いたまま、
「はい」
 と言った。
 もう日が変ってから、謡子はアパートに来た。抱き寄せたら、
「私、こんな経験ないんです。おまかせしますから」
 そう言って、体を硬くしたまま体重をあずけてきた。白い綿のブラウスを通して、体の温もりと早く強く打つ鼓動が伝わってきて、息の詰るような時間が過ぎていった。
 そしてその夜、もう二時近くになったころ、布団の上に体を起こし、胸のボタンを留めながら、謡子は言った。
「私、この関係を月並みなものにするつもりはない。彼は、ポスト・モダンを踏まえた、マルクス主義の、大切な人だし」
 自分自身に言い聞かせるように、硬い口調で呪文のように。
 謡子は二十一歳の時、同じ京大生と結婚していた。当時まだ大学院に籍を置いていた彼のことを、構造主義的なマルクス主義者だと言った。「構造主義的」マルクス主義? アルチュセールというフランス人哲学者の名前くらいは、かろうじて知っていたけれど、謡子と再会するまで、私は、マルクス主義が素朴に信じ、西欧の諸哲学と共有していた「歴史」や「進歩」や「人間」といった概念から疑うのだという、「構造主義」という、その言葉すら聞いたことがなかった。
 服を着終えて髪をとかした謡子を大通りまで送っていき、タクシーに乗せた。後になって、「あの時のあなたは勝ち誇った顔をしていた」と言われた。
 私たちはその夜から、生きることのできなかった別の人生を、相手の中に実現したかのように、お互いに憧れて夢中になったのだ。謡子は、私が生きてきた道筋を、その本当の意味を知っていてくれる唯一の人になった。あの事件から十五年、一本の道が、戦争や暴力や、差別や抑圧のない「もう一つの世界」にむけて開かれているはずだったが、月日を経るにしたがって、その道をたどることは、十五歳の少年の考えていたほど、簡単ではないことが明らかになってきた。日本の左翼運動全体が後退していく中で、それでも、私は私の選んだ人生を自分自身で受け入れ、引き受けていくつもりだったが、それはやはりつらいことだった。そこに、もう視界の遥か彼方に去っていったと思っていた出発点から、突然一人の女が現れて、まるできのうのことのようにその時の情景を語り、その時から現在にいたる私の人生を共有する素振りを見せたのだ。それがどれほど私を喜ばせた事だろう。
 人生は一度だけ、人は一つの生き方しかできないけれど、私たちはお互いの人生を共有することによって、考え得る限りのすべての人生を、我がものにし得るかのような幻想の中にいた。そのようにして、十五年目の再会の年は暮れていった。

     冬

 年が明けて一九八六年。松も取れて駅の混雑も元に戻っていたけれど、朝七時過ぎの横浜駅はまだ乗客もまばらで、東口から西口まで線路と駅ビルの下をくぐり抜けている大きな地下通路も、粉雪の舞う外界の寒気が入り込んで冷えきっていた。その通路の一角の奥まった場所に鉄製の大きなドアがあって、押して中に入ると駅長室に通じていた。横浜駅長という木の看板が横に掛かったドアを開けて入ると、左手には向い合せに幾つか並んだ庶務係のスチール机、右手には、昨日からの泊り勤務についている当直助役の一回り大きなスチール机があった。駅長の部屋はもう一つ奥のドアで仕切られたところにあったが、その時刻、もちろん駅長は出勤前で、当直助役がその時間帯の責任者だった。横浜駅での朝夕のラッシュ時間帯の「尻押し」は、本来の仕事から排除されている新橋要員機動センターの労働者に与えられていた数少ない仕事の一つで、「通勤対策」と銘打ったその仕事が回ってくると、私たちは支給品の大きなバッグに紺色の制服と制帽を詰め込んで横浜駅に出勤し、所定の時刻には、制服姿で当直助役の点呼を受けることになっていた。その日の朝も、私たち五人は更衣室で制服に着替え、点呼を受ける時刻が来るのを待ってはいたのだが、実はその時、ささいなことで、われわれは尻押しの仕事からも排除されていた。
 七時三十分になると、われわれはぞろぞろとスチール机の前に並んだ。当直の城山助役が、
「それでは出勤点呼を行います」
 と型どおり宣言し、黒い表紙の点呼簿とわれわれの顔を見比べながら氏名を読み上げ終わると、
「では仕事に就いて下さい」
 と言ったが、われわれはその場を動かなかった。金森が、言葉はていねいだが、何か押し殺すような調子で、
「アノラックを着させて下さい」
 と言った。スチール机の向こう側で城山助役が、
「認めません。早く仕事に就きなさい」
 といつもの事ながらうんざりした顔で答えた。金森がふたたびさらに低い調子で
「アノラックを着させて下さい」
 と言った。立花が、
「この前は、雪でも降ったら考えるって言われたんですよ。雪降ってるじゃない、今朝は」
 と言うと、城山助役は一瞬ひるんだようだが、
「今朝は防寒着は要りません。必要かどうかはこちらで判断します」
 と言った。皆が口々に喋りだした。
「それはおかしいだろう。言うことを変えるなよ」
「何で許可しないんだよ。理由を言ってくれよ」
「風邪ひいてるんだよ。着させてよ」
 それから、その日の朝もまたひと騒ぎがはじまった。机をはさんでこっちが五人、向こうは三人。いつも一番乱暴な口をきく臼田助役が、
「まったく仕事する気がないな。こいつら」
 と言うと、だんだん熱くなってきていた沖田が、
「こいつらとはなんだよ。そんな言い方があるか、謝れよ」
 と大声を出して、後はいつもの怒鳴りあいだ。
「仕事もしない奴に、謝る必要なんかない」
「仕事しないとは言ってないだろう」
「だったら、はやくホームに行きなさい」
「だから、アノラック着せてくれたら、すぐ行くよ」
「前はよかったじゃないか。何で駄目なんだよ。理由を言ってみろよ」
 城山助役は腕時計にちらっと目をやると、
「七時三十六分。勤務につく意志がないとみなして、助勤業務を解除します」
 といつもの通り宣言して、それで「仕事」は終わりだった。一人一人が持たされている記録簿に、七時三十分から三十六分まで、六分間だけ「横浜駅で勤務についた」ことが書き込まれ、印が押されて手渡されると、私たちは更衣室へ行って、さっき着たばかりの紺色の制服を脱ぎはじめた。
 分割民営化に向けて、国鉄当局が進める「民間企業にふさわしい企業人への意識改革」は、雪の舞い落ちる真冬のホームでも、制服の上に防寒着を羽織ることも許さないという、滑稽で悲惨なものになっていた。アノラックを着ないで寒さに耐えることが、どうして「民間企業人」にふさわしいのか、誰も説明はできなかったのだが、ある日、着用を許可する期間と時間についての厳格な規程が全職場に降りてきて、そういうことになった。そして、冬が来てこれまで通りアノラックを着させろと主張するわれわれに対して、横浜駅は尻押しの仕事を奪うことで答えたのだった。もう一ヵ月ほどそういうことが続いていた。
「さー、飯食って帰ろうぜ。こんなところ、居たくもないよな」
 着替えを済ませた金森がわざと、事務室でこちらをうかがっている助役たちに聞こえるように大きな声を出した。
「仕事したい、仕事したいって言ってるのに、しなくていい、しなくていいって言うんだからなあ」
 立花も負けずに大声を出し、私たちは再び制服を入れたバッグを手に、ぞろぞろと更衣室を出た。努めて冷静な顔をして机に向かっている城山助役の前を通るとき、沖田が、
「じゃあ、明日もまた来ますから」
 と言うと、城山助役は目線を書類に落としたまま固い表情を変えないが、その横に居た臼田助役が、
「仕事する気のない奴は来なくていいぞ。その方が手間がはぶける」
 と言ったものだから、沖田が、
「あんたになんか言ってないんだよ」
 と、顔を真っ赤にして怒り出し、臼田の方ににじり寄る素振りを見せた。
「いいよ、いいよ、ほっとけ」
「相手にするだけ損なんだから。飯食いにいこうぜ早く」
 少しばかり年長の金森と私はあわてて沖田をなだめにかかり、今度は私と金森に向かって何か言っている臼田の声は聞かないで、事務室から皆を押し出すようにして、エレベーターの方にせき立てた。
 険悪な空気の充満する地下一階から地上へと、エレベーターが私たちを運んでいくあいだに、さっきまで尖がっていた仲間たちの目つきは少しずつゆるんでいって、駅ビル二階にある職員食堂のバネ仕掛けのドアを押して入って、カウンターに並ぶ頃には、もう皆普段の顔つきになっていた。
「おばちゃん、カレーライスちょうだい」
「お前、まったく、いつもカレーだな。カレー食ってりゃ機嫌いいんだからなあ。ああ、俺は鮭、あと納豆に玉子下さい」
「金$きん$さんだって、いつも納豆食ってるじゃない」
「いや、黒沢のカレーには負けるよ」
「黒沢君は、もうカレー食べさせないぞって言われたら、国労抜けちゃうんじゃないの」
「青木さんまで、ひどいなあ」
 カレーライスを四角いアルミ盆に乗せてもらいながら、黒沢は口を尖らせる。横浜駅で就労を拒否されると、職員食堂に行って朝食を食べてから、新橋にある要員機動センターに戻るというのが、もう私たちの日課のようになっていた。
「さっき本気で怒ってたでしょう。こわかったよ、手出しちゃうんじゃないかって」
 立花が向かいで飯をかき込んでいる沖田に言った。
「大丈夫だよ、ちょっと切れかけたけどな。でもな、今朝だけじゃないんだぜ。このあいだも馬鹿だって言われたんだから、あいつに」
 と沖田が言った。
「本当かよ」
 と金森が言った。
「本当ですよ。臼田のやつ、国鉄の現状を考えたら、アノラックくらいで仕事しないのは馬鹿だって言いやがってさ。あの時はもう少しで殴るとこでしたよ」
「手は出すなよ、手は。出したら喜ぶのは向こうなんだから」
 それを聞いて、金森は言った。
「わかってますよ」
 沖田は真顔で言った。沖田はもう一人の根津と同様、新橋駅時代からの私の同僚だったが、昔から熱しやすいところがあった。私の方を向いた沖田が、
「青木さん、大崎助役のこと覚えてる。今年もあのベスト着てるのかな」
 と言った。
「ああ電池のヒーターが付いたやつだろう。着てるんじゃないの」
 と私は答えた。要員機動センターに来る以前、私たちが働いていた新橋駅のホームでも、アノラックが許可されなくなった。大崎という助役が、どこかで「乾電池ヒーター付ベスト」という代物を探してきて、制服の下に着込んで「これで雪でも寒くない」と言ったというので、陰で笑われたのは去年の冬のことだった。
「それこそ馬鹿だよなあ、まったく」
 横のテーブルで立花が、吐き出すように大きな声を出した。
「でも、そんな変な物をよく探してくるよな。熱意というか、ひたむきさというか、それには俺、感心するな」
 その向い側の黒沢は金歯を見せて笑いながら言った。
 一回衝突するたびに、当局が「現認$げんにん$報告書」というものを書いていることは分かっていた。分割民営化後の新会社に採用される人数は二十万人で、三十万人いる国鉄労働者のうち、十万人はどうしてもあぶれる勘定になっていた。当局が採否を決める一方的な権限を持っているのだから、「現認報告書」の束は、確実に私たちの首を締めていたのだが、なぜだか私たちは、「前のようにアノラックを着させろ」という要求を引っ込めようなどとは少しも思わなかった。
「さあて、引き上げるとするか」
 金森がぐるっと皆を見回してからそう言うと、脇にあるバッグを持って立ち上がった。私たちは、めいめいバッグを持ってそれに続き、ぞろぞろと食堂を出た。
「おばちゃん、御馳走さま」
 バネ仕掛けのドアを押しながら、沖田がカウンターの中に大きな声をかけた。上りのホームに向かう途中、横を歩いていた金森がボソッと言った。
「もうここには来たくないな」

 その日の夜は月に一度の全体集会だった。横浜駅から追い返されて、勤務時間終了までは要員機動センターで「待命$たいめい$」だった私が、貨物駅を挟んでちょうど反対側にある国労新橋支部に行くと、会議室にはもう、普段は様々な駅にばらばらにされている組合員が二十人ほど集っていた。かなり大きな木造モルタル二階建の、二階部分を半分に仕切って作った会議室は、古い大きなエアコンがグゥァングゥァンと盛大な音を立てて暖房していてもうすら寒く、正面の黒板に向けて並べられた机の列のあちこちに、仲間たちが思い思い座って喋っていた。一番前のテーブルに一人だけこちらを向いて座っていた副分会長の小田島が、私の顔を見ると、
「それじゃあ、そろそろはじめるか」
 と口火を切って集会が始まった。やはり話の中心は横浜駅の問題になった。前の方に座っていた金森が、うながされて、
「まあ、今朝の様子って言っても、いつものとおりだけど…」
 と一通り話し終えると、一番後ろの席の西崎が、
「いいかい」
 と手を挙げてから立ち上がった。
「このあいだから考えてるんだけど、どうせ尻押しなんて俺たちの本来の仕事じゃないんだから、もう行くことないと思うんだよな。横浜の通対$つうたい$は、所長と交渉してこっちの方から助勤を断ってもいいんじゃないのか」
「俺もそう思ってたんだ」
 と即座に金森が言い、指名を待たずに再び立ち上がると、
「今朝、助役とやりあったときに、こんな連中の顔、見たくもないって本気で思ったんだよな。そう思ったら吐き気がしてきてな。どうせ仕事させないのが分かってるんだから、行く必要はないとおもうんだよ」
 と続けた。沖田の、
「賛成」
 という声が聞こえて、さらに、同調する声が幾つか上がった。しかし、壁にもたれるようにして座っていた島田は、それらの声に触発されたように体を起こすと、
「それはちょっとまずいんじゃないか」
 と言った。
「何でよ。まずくないよ」
 と谷が言った。島田は、
「まずいさ。自分たちの方から」
 と谷の方を向いて反論しはじめたが、小田島がそれを制止した。
「勝手に話さないでくれる。この問題は執行委員会で討議したから、分会の見解を聞いてからにしてくれよ。分会長」
 そういって、最前列で議論を聞いていた分会長の三木に発言をうながした。うながされた三木は、首だけ回して振り返りながら、
「分会でも結論出したわけじゃないし、どうするかはここで決めたらいいんだけど、執行部のだいたいの気持ちを報告するか」
 そう言うと立ち上がって、小柄な体を全員の方に向けた。
「雪が降ってもアノラックを認めないのは、どう考えてもおかしいだろうって言うと、実際のところ、所長だってウーンって唸ったきり何も言わなくなるんだよ。けど、じゃあ横浜駅に掛け合えって言うと、それは横浜駅の方針だから、機動センターがとやかく言えないって、いつもの手で逃げるんだよな。現状はそういうところだ。その上でどうするかだけど、こちらから行かないとは、やっぱり言えないと思う。あいつら働く気がないから機動センターに飛ばされたんだって、あちこちで宣伝されてるわけだろう。そうじゃないことを示すためにも、働かせろって言い続けて、通い続けるしかないと思うんだよな。吐き気がするっていう金森さんの気持ちはわかるけど、闘いだと思って毎日通ってほしいんだよ」
 金森が即座に言った。
「よくわかるんなら、あいつらの顔見て嫌な思いするためだけに、朝早くから横浜くんだりまで行けなんて言えないだろう。だいいち俺たち、お願いしてまで尻押しするために、鉄道に入ったのかよ。違うだろうが。沖田に聞いたけど、臼田助役なんか俺たちのことを、面と向かって馬鹿だって言ってるんだぞ」
「本当かよ」
 と西崎が後ろの席で言い、
「本当だよ」
 という沖田の大きな声が聞こえた。
「だから、いくら嫌なやつでも、たとえ馬鹿だって言われても、顔を見に行くのが闘いっていう時もあるんだよ」
 と横の方から島田がまた言った。立ち上がった西崎が、
「そんなのは闘いでも何でもないよ」
 と不機嫌そうに言った。
「だいたい、この半年、闘いらしい闘い、やったかよ。収容所に入れられてるのに、くやしいって気持ちなくしたのかよ、みんな。元の駅に戻すまでは非協力を貫くべきだろうが。分割民営化反対のワッペン闘争だって、結局収拾しちゃったしよう」
 と続けた。それをさえぎって、
「それは別の話だろう。地方本部の判断だろうがワッペンは」
 と島田が言った。
「俺の言ってるのはそういうことじゃなくて」
 と西崎が言い返したところで、小田島が、
「言い合いするなよ」
 とまた割って入った。私と同い年の松尾が手を挙げて、
「ちょっといいか」
 と言い、スポーツ刈りの頭に手を置いて、くりくりとこね回しながら立ち上がった。
「俺も、冷静に考えたら、横浜には行かないとは決められないと思う。所長と交渉しても、助勤先から外すとは言わないだろうし、行けって命令が出てて、行かなきゃ就労拒否だろ。就労拒否なら首だよな。だから、行くしかないっていう分会の判断はしょうがないとは思うよ。アノラックを要求して闘ってるのは、もう俺たちだけなんだし。けどな、西崎たちが言ってるのは、そういう事じゃないんだよ」
「いや、俺は本当に行きたくないって言ってるんだよ」
 後から西崎の声が飛んでくると、振り返った松尾は、一瞬だけ怒りの表情を見せて、
「いいから、もう少し黙って聞いてろよ」
 と言い、それから前に向きなおって続けた。ひしゃげぎみの愛嬌のある顔が、ほんのり紅潮していた。
「俺たちが言いたいのは、俺たちが何でここにいるのか、それを分会だけには忘れないで欲しいってことなんだよ。俺たちは、国労本部が、職場の権利は手放すな、権利侵害と闘え、分割民営化反対のワッペンつけろっていうのを守ったから、それで、ここに来たんだろう。何で機動センターに来たのか、それを簡単に忘れられるかよ。ワッペンの時だって、地方本部は全体の力関係で判断して収拾するって言ったけど、それなら俺はもっと前に、自分で判断してワッペンはずして頭下げてたら、ここには居なかったんだぜ。ものごとを上の方で判断するのに、反対してるわけじゃない。旗を巻くときにも、てめえの振った旗の通り、突っ込んで行ったやつがいたことを、忘れて欲しくないって、そう言ってるんだよ。機動センターに飛ばされた後に、これまで、闘え、闘えって言ってた奴から、旗を巻くのも闘いだって、シャーシャーと説教されても、どうしようもないだろう。俺たちは闘ってここに来たんだ、もう尻尾は巻けないんだよ。俺たちは闘いたいんだ、組合は闘って勝つ方針を出せって、そう言ってるんだ」
「そんな、感情的なこと言ったって、方針は出ないよ。だって…」
 島田が座ったまま言うと、松尾は、
「人間の感情抜きに物事を決められるかよ。ほんとに馬鹿野郎だな、お前」
 そう言うと、顔を紅潮させたまま、どんと椅子に座った。発言が途絶えてしまい、しばらく沈黙が続いた。小田島が、
「だれか何か言えよ」
 と言った。
「おれは、松ちゃんと同じ気持ちだ」
 という根津の声が聞こえた。松尾が座ったままで言った。
「ついでに言っとくけどな、アノラックを認められないままでも、しょうがないから尻押ししようって、そういう妥協だけは、俺はできないからな。それだけはやめてくれよ。そんなにしてまで尻押ししてたら、俺たぶん死にたい気持ちになると思うから」
 小田島が言った。
「そろそろまとめなくちゃならないんだけど。松ちゃんの意見も、結論だけ言うと、これまで通りってことだよな」
「結論だけならな」
 と、松尾が不機嫌さは隠せない声で言った。小田島が言った。
「金$きん$さんと西崎君はどうなんだ」
「松ちゃんが、仕方ないっていうなら、俺もいいよ。でも、確認しとくけど、雪の降る日に防寒着なしで尻押しするのは絶対いやだからな」
 と西崎は言った。金森は、
「それが多数の意見なら従うよ」
 と言った。三木が、
「わかった」
 と言って手を挙げた。小田島が、
「どうぞ」
 と言って、三木は再び立ち上がった。
「松ちゃんの言ったことは身に染みてわかる。機会をみて支部や地本に何とか気持ちを伝えるように努力する。その上で、横浜駅の朝の通対にあたった者が、点呼でアノラックの着用を要求する闘いは、今まで通り継続する。寒さをこらえて尻押しをするような妥協はしない。異議がないなら、それで集約しようと思う。ただな、点呼の場所で抗議するだけじゃつまらないから、もう少し工夫できないかな。そこを考えてくれないか」
 誰も異議を唱える者はなく、誰かが、抗議のビラを横浜駅前で撒こうと言って、そのことが決まると、集まりはそれであらかた終わりだった。
 全体集会の後は、いつも全員が居酒屋に流れて、そしていつも回りの客に迷惑なくらい盛り上がった。何せ、あちこちに分散、分断されているものだから、なかなか皆が顔をあわす機会がなく、中には月の大半を当局派労組員ばかりの駅に一人で「張りつけ」になって、孤独に耐えている者もいた。こういう役回りは、当局側が「筋金入り」とみなした活動家ではなく、「揺さぶれば落ちる可能性がある」と見ている者に回ってきた。この日の夜も、駅前の居酒屋で、
「無視しやがるから俺だって意地になってさ、一日中こっちからは一言も口きかないんだ」
 そうしたうちの一人が、あまり酒の飲めないはずなのに、顔を真っ赤にして大声を出していた。無理のないことだった。
「偉い! 当然だよ。国労から順に首を切れって言いだしてんだろ、連中。そんな奴らに口なんかきけないよな」
 岩倉が、普段でもよくとおる高い声を、いっそう張り上げてそいつの肩を叩いていた。
「けど、奴らだって下っ端は苦しいんだから。今、どこの駅でも、新会社に採用されたい弱味につけこんで、明番$あけばん$なのに超勤もつけないでただ働きさせてるだろう。改革労協の組合員でも、話してみると不満たらたら言うぞ」
 分会書記長の牧野が、四角い顔で正論を吐いて割って入った。
「甘い。何言ってんだよ牧野。そんな奴、国労には当局の不満たらたら言うくせに、当局には国労の悪口、その十倍も言って取り入ってるんだよ。分んねえのか、それくらい」
 下重はもうほとんど怒鳴っていた。
「労働者の汚さ、残酷さってやつだな」
 黒沢がしたり顔でちゃちゃを入れていた。向かいで飲んでいた根津が、私のコップにビールを注ぎながら、
「松ちゃん、力$りき$入ってたね。感心しましたよ」
 と言った。私が、
「そうだよな。何か、本当の言葉って、そういう感じがしたな」
 と言うと、根津は、
「なるほどね、本当の言葉か」
 と言い、コップに目を落とすと、一息でビールを飲み干してから、私の方を向き直った。
「今日午前中に新橋駅の改札口通ったら、川辺さんがオレンジカード売ってたんだよ」
「日勤の勤務時間中じゃないのか」
「いや、きのう泊まりだったから今日は明番$あけばん$のはずなんだけど。俺の顔見たら苦笑いして下向いちゃったんだよ」
 と根津が言い、私はこの前会ったときの、何となく元気のない川辺さんの顔を思い浮かべた。券売機で使えるプリぺイドカードを明番や休日の無償労働で売らせるのは、手っとり早い「増収運動」で、どこの駅でもこれに協力するかどうかが、労働者を線引きする手段としても使われていた。
「川辺さん、勝負に負けちゃったのかもしれないな」
「そうですね」
 と根津が言い、それから、
「今度会ったら、話してみて下さいよ」
 と言った。
「わかった」
 と私は言った。それから、空になった根津のコップにビールを注ぐと、向こうの端で西崎としゃべっている松尾に向かって、
「松ちゃん、根津がたいしたこと言うって感心してるぞ」
 と大声で言った。こちらを見た松尾は、
「当たり前だよ。地に足のついた松尾君って、昔から、そう言われてるんだよ俺は。感心したなら、酒注ぎに来いよな」
 と怒鳴り返し、根津は、ビール瓶を持つと松尾の席の方に立っていった。
 こうして、皆だんだんわけが分らなくなってきて、飲みつかれる頃には何となくストレスが発散されて、お開きになるのもいつものことだった。

 アパートに帰って来たのは十一時だった。薄暗いコンクリートの廊下を突き当たって、鍵を探そうとポケットに手を入れたところで、スチール製のドア越しに電話のベルが鳴っているのが聞こえた。謡子からだ、そう思うと鍵穴に鍵を差し込むのがもどかしかった。ドアを開け、靴を脱ぎ飛ばして部屋に上がり、畳に置きっぱなしの電話から受話器を取り上げた途端に、
「青木君?」
 という声が聞こえた。やっぱり謡子からだった。
「ああよかった。帰って来たらドアの向こうで電話が鳴ってたから、飛び込んで来たんだ」
 私は少し息を弾ませながら言った。
「私だと思って急いでくれたの」
「うん」
「うれしいわあ」
 とてもゆっくりとした口調で、向こう側で受話器を当てている謡子の顔がほころんでいくのが見えるようだった。
「ちょっと待ってて。ドア締めてくるから」
 そう言って受話器を置くと、私は三畳たらずの板張りの台所を横切って、開け放しになっていたドアを締め、鍵を掛けてから電話機に戻った。
「どうもお待たせ」
 と私が言うと、
「ドアも締めないで飛び込んで来たの。靴も脱いでないんじゃない。確かめてみたら」
 と軽口を叩き、それから、
「今度の土曜日は、夕方には行けるから」
 と言った。私は努めて冷静に、
「分りました。それじゃあ晩御飯作っておきます」
 と答えた。
 年が明けた頃には、謡子は仕事を遣り繰りして、週末ごとに私のアパートに来るようになっていた。「謡子です。今から行きます」。そう電話があると私はアパートからほど近い私鉄の小さな駅まで迎えに行った。謡子はいつも、仕事に使う書類のいっぱい詰まった、男物の茶色い大きな革鞄を持って電車から降りてきた。「いらっしゃい」と言うと、少し固い表情のままこくっとうなずき、それからニッと笑った。私は手を差し出して重い鞄を持ってやる。週に一度、週末の一日の、夕方から深夜までが私たちの逢瀬の時だった。
「青木君も今日は遅かったのね」
「組合の集まりでね。その後飲んできたから酔っ払ってる」
「そう、それならいいわね。私の方はずっと仕事してて、さっき帰ってきてようやく一息ついたとこなの」
「いつも今頃まで働いているみたいだね。大変だよな、あなたの仕事は」
「まあ、毎日ってわけじゃないけどね。事務所の仕事のほかに、お金にならない仕事が増えちゃって。このあいだ言ってた労働争議の件、結局引き受けちゃったの。それで今日は打ち合せがあって」
 電話の向こうで小さなため息をついてから、
「ねえ、ほかには何があったの」
 と聞いた。自分の仕事の話をした後で、私の職場の話を聞きたがるのはいつものことだった。私は、実は近ごろ横浜駅から追い返されているのだと話し、
「冗談みたいだろう。みんなでどうするか相談してたんだ」
 と言うと、
「冗談じゃないわよ、そんなひどい話。人権問題じゃない。ひどいわよ、絶対何とかしなくちゃいけないわ」
 と憤慨したのだが、と、その時、突然、
「あっ」
 と小さな声をあげた。そして急によそよそしい声で、依頼者との電話を装うように、
「じゃあ、そういうことですから。よろしくお願いします」
 とだけ言うと、ぷつんと電話が切れてしまった。
 私は体を固くして、受話器から聞こえるツーという音を聞いていた。カプセルから彼が出てきたのだ。切れてしまった向こう側のできごとを知るすべはなく、私はしばらく受話器を握り続けていた。
 あの時、切れた電話の向こうで何かあったのか、それとも何もなかったのか。後日、謡子は何も言わなかった。多分、彼は気がつかず、なにごとも起きなかったのかもしれない。しかしどちらにせよ、私はそれを聞いた記憶がない。私は無意識のうちに、いや半ば意識的に問題を避けて謡子に押しつけていたからだ。

「京極君は音に凄く敏感だから、ずっと防音カプセルの中で生活しているの。それで自分のリズムで寝たり起きたりするでしょう。だから、だんだん昼と夜がずれてきて、しまいには正反対になるの。そうなったら、御飯を作っても起きてこないし」
 謡子は彼の姓に君をつけて呼ぶことが多かった。二人とも「家」という制度には反対で、戸籍上の結婚をしなかったために、彼の姓は謡子のそれとは違っていた。仕事に就かず、ピアノを弾くために設計された防音カプセルに篭って、起きている間じゅうずっと勉強しているという彼の生活を聞いたのは、謡子がアパートに来るようになって、まだあまり日がたたない頃のことだったが、その時は、不思議にそんなに変だという気はしなかった。
「〈批評〉に書いています」
 再会したその日には、夫が物を書いているのが誇らしい、そんな感じで雑誌の名を口にした。数日後、大きな本屋で探し出した季刊雑誌に掲載された彼の文章は、人間の心の問題、人と人との関係を精神分析の理論を踏まえて考察しながら、「人間というものを、おそらくマルクスほどのんきに理解した人はいなかった」と言い、マルクスの人間観の楽観主義を批判し、マルクス主義の神学的側面、共産主義思想のユートピア思想としての側面を批判していた。私にはそこで使われている用語のすべて、踏まえられている理論すべてが初対面だったから、彼の文章はほとんど理解不能だったけれど、「神学としてのマルクス主義」には心当たりがあった。それは十五年前、私が考えた「人間の解放」とは何だったのだろう、という問いにつながっていた。
 私は高校に入ってすぐに、「労働者階級の解放を通した人間の解放」というマルクス主義のテーゼを承認し、自分の闘いを鋳型にはめたのだけれど、当時私の考えた「人間の解放」とは何だったのだろう。十五年前の十五才の時、当時の急進的な学生や青年と共に、私が立ち向かおうとした敵と、十五年後に、国鉄労働者として直面している敵は、重なっているようでずれていた。私は私なりに、そこに問題があることに気がついていた。それは、「人間の解放」という言葉の抽象性に関する問題であり、「マルクス主義の神学としての側面」、少なくともその「神学的な理解」につながっていた。労働者と資本家の、労働者と国家との攻防の中に、自由な世界を希求する人間の願いの一切を託すことはできないという事実、「労働者が革命をするのだ。労働者による革命を通じて人間を解放するのだ」という確信によって、国鉄に入ったことに含まれていた錯覚に、私は当時から気づき始めていた。しかしそれでも、「ずれていても重なっている」と思っている私には、「もはや神のみでなく哲学と人間も、人間自身にとって、古くさいしろものになろうとしている」と書かれ、悲観的なトーンでつらぬかれた彼の文章は、一切の救済を拒否して凍てついているような気がした。
「私は十年間、彼の言うことをずっと聞いてきたのよ」
 謡子は、彼がポスト・モダン思想を踏まえたマルクス主義の新しい理論を構築することを願い、専制君主のように振る舞う彼を十年間支え続けたと言う。
「東京にきて、はじめに住んだアパートは小さくて、カプセルが入らないから彼のいらいらがすごくなって。前が公園で、シーソーの音がギーギーいうと荒れ狂ってね。飛んで行っては、すみません、すみません、病人が居ますからって、何回も何回も頼んだの。それで今の家を買って住みやすいように全部揃えて、静かにしてくれるようになったら、私、何してきたんだろうって…。そう思ったときに青木君に会ったから」
 そう言うと謡子は私の目を見た。
「働いて欲しい。予備校の講師の口なら私が探してくるからって何度か頼んだわ。お互いに男と女は平等だと考えているんだから、あなたも働くべきだって言ったこともある。京極君は、長いこと黙って考え込んでたけど、結局、やっぱりそんな時間があれば勉強する方がいいって」
 私は謡子が、思想の上では男女平等で戸籍や「家」の制度から自由でも、生活の上では稼ぎも家事もみな女に回ってくる、そんな彼との生活を清算し、「もうあなたのところには帰らない」と宣言して私のところに来てくれることを望み、そして、謡子はすぐに決断できないとしても、時間が私の希望をかなえてくれると信じていた。

     *

 突然切れてしまった電話の中で、来ると言っていた日の夕方に、謡子はなかなかやって来ず、夕食の準備を終えた私はいらつく心を押さえながら待っていた。夜七時をだいぶ過ぎた頃になって電話が鳴った。
「これから練馬警察まで行かなくちゃならなくなった」
 電話の向こうでべそをかいていた。
「免許証不提示で道交法違反なんだけどね、トラックを警察に押収されたの。取り返しに行くはめになって」
「言ってることがよく分からないよ」
「アジトを移そうと思って引っ越し荷物をトラックに積んだら、刑事がトラックを囲んだの。免許証を見せろって言われて、ためらったら、いきなり逮捕されたのよ」
「それで、トラック丸ごと持ってかれたの」
 やっと意味が分りかけてきた。
「そうなの、むちゃくちゃでしょう。道路交通法違反で、トラックと積み荷まで押収したのよ」
「そりゃひどいな。そんなことが起きちゃったんならしかたがないね。頑張ってきてよ」
 そう励まして電話を切るよりほかにすべはなかった。
 新左翼党派のゲリラ闘争に対する弾圧は、もうとっくに法律の枠を越えていたが、そうした公安事件を引き受ける弁護士はずいぶん少なくなっていて、謡子はその中に最も新しく加わった幾人かのうちの一人だった。監視を続けていたアジトを移動しようとしたのを、公安警察が急襲したのだろう。今頃は差し押さえた積み荷の一つ一つを、丹念に調べている頃だった。
 朝からずっと、ふわふわと浮き足立つ気配のあった心がストンと醒めてしまい、それでも私の心の片隅には、来てくれるのではないかという思いが残っていた。だから、時計の針が十一時半を指したとき、鉄製のドアをノックするカンカンという音が聞こえると、私は飛んでいってドアを開けた。謡子はジーパンを履いてエンジ色のセーターを着た上に茶色のダッフルコートを羽織り、顔を上気させて、いつもの皮鞄を持って立っていた。
「こんな時間に来てしまって」
 伏し目がちに、小さな声で言った。
「いいえ、来てくれて本当にありがとう。寒かったでしょう、早く入って下さい」
 スニーカーを脱いで部屋に上がった謡子を、私はコートの上から抱きしめた。真冬の冷気に晒されてきたダッフルコートは冷え切っていて、謡子は体を固くしたまま立っていた。私たちの間には、まだ少しぎこちなさが残っていた。
 コートを脱がせて、炬燵に入るようにうながし、流しに立ってお茶を入れながら、
「晩御飯におでん作っておいたんだけどな。いくら何でもどこかで何か食べたんでしょう」
 と言うと、背を丸めて炬燵に入っていた謡子は首だけ回して私の方を見て、固い表情をやっと崩して、泣いているのか笑っているのか分らない変な顔になった。
「あー、今日はせっかく青木君と食事ができると思ってたのに。誰か他の人って探したんだけど、練馬まで行ってくれる人がいなかったの」
 そう言うと背を反らせて天井を仰いだ。そしてその恰好のまま、
「もう、何でこんな事件ばかり起きるんだろう」
 と大きな声で泣き言を言い、それからキッとした顔つきになった。
「けどね、ひどいと思わない。押収した車も積荷も返さないっていうのよ。免許証の不提示で逮捕するのもひどいけど、それで車と積荷を押収できるはずないでしょう。返せって言ったら、担当部署と連絡が取れない、今こちらでは判断できないの一点張りなのよ。ギャーギャー言ってやったら、汚い物を見るような目つきするんだから」
 そう言って憤慨した。深夜の警察で、セーターにジーンズという活動家のような恰好をして、口から泡を飛ばして刑事に食いついていた姿が目に見えるようで、思わず笑ってしまったが、そんな私の表情は目に入らないらしく、少しの沈黙の後で、
「彼はね」
 と固い口調で言った。
「彼はね、そんな事件の一つ一つにこだわってもしょうがない。労働者を一人二人と助けても、そんなことではどうにもならないって言うんだけどね。依頼されるとそうは思えないのよ、私。それにね、こんな事件ばかりやってると彼の理論と食い違いが出てくるの。彼は、それはあなたが古い型の支配とぶつかっているからだって言うんだけどね」
 彼の関心は、むき出しの暴力が後景に退いたあとも、なぜ資本主義社会が安定しているのかというところに向けられているのだろう。私は、
「まあ、暴力が大きな顔をしている場所も、まだまだあるからね」
 と言った。孤立した都市ゲリラへの国家権力の容赦ない弾圧に、新米弁護士が徒手空拳で立ち向かって勝ち目があるとは思えなかったし、それ以前に私は、運動の後退を戦術のエスカレートで突破しようとする党派じたいが、大きな過ちを犯していると思っていたが、しかし、交通違反を口実にトラックを持ち去った警察の仕打ちに、顔を赤くして憤慨している謡子がいとおしかった。
「ねえ、おでん貰ってもいい。少しなら食べられそうだわ」
 丸めた体を炬燵の中に押し込むような恰好のままで言った。
「お酒もあるよ。からだ冷えちゃってるんでしょう」
 私は立ち上がって再び台所に行き、ガス台の上の、おでんの入った鍋に火をつけると、レンジで酒を温めた。ぐい飲みに注いでやったぬる燗の酒を、謡子はさもうまそうに一口だけ飲んだ。
「警察署って、どこも底冷えがするのよね。練馬警察もひどく寒くって」
 警察署や拘置所など、公安事件の被告たちが収容されている建物は皆、どこも分厚いコンクリートでできた大きな棺桶のようなつくりになっていて、もちろん、そこで働く警察官や看守がいる場所は暖房されているのだろうが、謡子たちが通される所には、多くの場合暖房がなく、冷え切った分厚いコンクリートの床や壁からの冷気が、容赦なく責め立ててきた。
「火の気のないのは保安上の理由だって言うんだろうけど、嫌がらせにしては度が過ぎてるよな。暴力に近い」
 と私が言うと、
「そうよね」
 と大きな声で同意した。そして、
「青木君たちだって、雪が降っても防寒着もだめだなんて、暴力そのものだわ。それに第一、あんな廃墟みたいなところにとじ込めるなんて、暴力以外のなにものでもないわ」
 と言った。
「まあ、それはそうだ」
 と私は答えた。
 ある日、謡子は私の職場が見たいと言って、まだ司法修習生だという友人と一緒に、新橋要員機動センターにやってきた。冷やかされることを覚悟して職場に呼んだその時はしかし、実際に引戸を開けて謡子たちを詰所に入れると、如才のない小田島が「やあ、やあ、いらっしゃい」と愛想を振りまいただけで、意外にも十人ほどいたあとの仲間たちは照れたように押し黙ってしまい、妙な雰囲気になった。自分たちとは違う私の一面、触れるのは妙に気の進まない私の一面を、弁護士とその卵だという、スーツを着た二人の女の振る舞いを通して突きつけられたような、そんな戸惑いが、皆の表情に微かに浮かんでいるような気がした。しかし、謡子たちはそんなことは気づかない様子で、ほこりが溜まった五階建てビルの、私たちのいる最上階以外のすべての階の部屋々々に、廃棄された備品がうずたかく投げ込まれて埋っている様子を見て、「こんなところにいるの」と、ただびっくりしたのだった。
 厚揚げを突ついていた箸をおいて、謡子が言った。
「ねえ、アノラックのことを新聞に載せるっていうの、どう思う」
「そりゃ、新聞が記事にしてくれたらありがたいけど。でも無理だろう。マスコミは全部、分割民営化推進で、とにかく国鉄労働者は働かないって、そうゆう論調だから」
 私が言うと、
「当然覚えてないでしょうけどね、青木君と私のあいだの学年に、岸君っていう子がいたの。今、新聞記者をしているのよ」
 そういって全国紙の名をあげ、
「彼なら国鉄で起きてる事を書いてくれるかもしれないって、この間から考えてるんだけど。岸君なら協力してくれるわよ。中学校の頃は右翼だったけど今は違うから。会ってみる?」
 と言った。私に断る理由はなく、謡子は、国鉄の人権侵害を新聞で告発しようという思いつきに、私が同意したことが嬉しいらしく、私の空いている日を尋ねたりして、どんどん話を進めていった。そして、
「明日にでも、岸君に連絡するから」
 満足した表情でそう言って話を切り上げた。それから、
「ねえ、今日はどんなことがあったの」
 と私の職場であったことを話してくれと言い、私は、
「うーん、別に変わった事はないけどね」
 と話しはじめた。
 幾らか話した後で沈黙が訪れた。私の右手、炬燵の斜め横の辺に体を入れて、私を見ている謡子の瞳をじっと見た。手を延ばして肩を抱くように引き寄せると、謡子は窮屈そうにしながらも、私のほうに倒れてきたが、さらにしっかり抱きしめようと乗り出した私の体を、両手で押しやってから、
「もう帰らなくっちゃ」
 と言った。時計を見ると、いつの間にか午前一時を過ぎていた。
「そうだな」
 と私は言い、謡子を送っていくために立ち上がった。
 タクシーを拾うために送っていく、アパートから大通りまでの百メートルほどの間、私たちはいつも無口になった。

     *

「青木さんねえ、私あの頃、ベ平連に出入りしていた貝塚圭子さんや仁科謡子さんを、よういじめたんですよ。青木さんたちが卒業式闘争やったあの年に、三島由紀夫が割腹自殺したでしょう。あれで決定的に右翼少年になりましてね。仁科さん悪口言ってませんでした? 今は私も天皇制反対ですけどね。天皇報道については、うちの社もまるでだらしがないんですわ。こんな事があるんですよ…」
 謡子が夜遅くやってきた日から幾日か後の夕方、仕事を終えた私は有楽町駅からほど近いビアホールで、岸記者と丸いテーブルに向い合せに座ってビールを飲んでいた。岸記者は爺むさい髭を生やして、擦り切れたようなコーデュロイの背広を着ている姿もおかしいが、第一、ビアホールで向きあうと、こちらの話を取材するよりも先に、自分の話を滔々とはじめて、なかなか私に話をさせてくれなかった。喋り続ける岸記者の顔を見ているうちに、謡子の言ったことが頭に浮かんできた。
「目立ちたがりのおかしな子でね。二階の教室の窓から飛び降りて見せてみんなをびっくりさせたり、そんなことばかりやってたの。貝塚さんが好きでね、それで逆に、貝塚さんや、貝塚さんといつも一緒にいた私は、よくいじめられたのよ」
 二階の窓から飛び降りて見せる子か。ぴったりだな。私は謡子の比喩の的確さに感心しながら、新聞各社が天皇制報道についていかに自主規制をしているのか、もうすぐ確実に死を迎える昭和天皇Xデーの報道が、いかに統制されながら準備されているのかという説明を上の空で聞いていた。
 それでも一通り話しおえた岸記者は、私が話し始めると、
「寒さこらえて民間マインドとはね」
 とか、
「要するに、命令されたら善悪は考えず何でも従えと、そういうことですか」
 とか、何度か合いの手を入れながら聞き終えると、
「分かりました。私の同僚に、今、国鉄問題を一生懸命やってるのがいるんで、そいつに点呼の場所に踏み込んで取材するように言いましょう。それと、青木さんが文章書いて『広場』にのせましょうよ。そうですね、『広場』への投稿では、分割民営化の不当性を正面から突くというよりは、仮に、国鉄労働者に民間マインドが足らない面があるとしても、雪の降る寒空にアノラック着させないなど、まったくの勘違いではないのかというような、そんな調子がいいんじゃないですか」
 とそれだけ言いおわると、やおら茶の背広の前をはだけると、背広の内側にはテープレコーダーやポケットベル、それに小さなカメラまで肩から吊ってあって、さながら拳銃をつり下げたガンマンのような姿になった。そして、その中からカメラをはずすと、テーブル越しに私のほうに向け、
「じゃあ、『広場』に載せたときの顔写真、撮らせてもらいますから。カメラのほう見てもらえますか」
 そう言って、まわりのテーブルには構わず二度もフラッシュを焚いたのだった。

 結局、アノラックをめぐる滑稽だが首のかかった争いは、春が来て暖かくなり、アノラックが必要なくなるまで続いた。私たちは横浜駅前で何度か「雪が降っても防寒着も許さない駅長の横暴に抗議して下さい」と書いた手作りのビラをまいたけれど、それくらいでは駅側が態度を改めるわけもなく、私たちはずっと就労を拒否され続け、「現認$げんにん$報告書」の山だけが当局に残った。横浜駅の点呼の場所に、国鉄担当の記者を踏み込ませようという岸記者の目論見は、そんなことをすれば国鉄からの取材がやりにくくなるという、担当記者の常識的判断で日の目を見ず、「広場」の欄も取り上げてくれなかった。
 謡子は、練馬警察の件と、その後何度か、三里塚闘争の被告たちと面会するために通った千葉刑務所の、酷寒の面会室に長時間いたことが原因で、膀胱炎になって医者にかかって三日ほど寝込んだ。
「ねえ、見て」
 病気が治ってしばらくした頃、アパートのドアを開けると、柔道着を三枚重ねたほど嵩のある、デニムの生地に綿の入ったどてらのようなオーバーを着て、立っていたことがある。
「原宿の古着屋で見つけたのよ」
 謡子はそう得意気に言って、寒さ対策の新兵器を見せびらかしたのだが、新兵器の威力は知れていて、暖かくなるまでに、その後も二度膀胱炎を再発した。そして、膀胱炎は再発を繰り返すと腎臓にまで影響が及ぶ、母親は腎臓を患ったために、自分一人しか子供がつくれなかったのだと言って苦しそうな表情をした。

 謡子が彼といた家を出たのは、もう暖かくなった八六年三月末の事だった。私と再会してから四ヶ月が過ぎていた。電話の向こうで、
「謡子です。今日、彼の家を出てアパートを借りました」
 と言った。私が何よりも聞きたい、待ち望んでいた言葉だった。
「そうか、決断してくれたのか。ありがとう。言ってくれたら手伝いに行ったのに。今から行くよ」
「ううん。彼が来てるから。場所は高円寺なの」
 脳天気な私の声に冷や水を浴びせるような冷静な口調で言った。高円寺、そうかそこまでか。郊外に向かう電車で新宿から十五分ほどの高円寺は、彼と暮らしてきた阿佐ヶ谷とは、駅ひとつ離れた場所だった。そうだな、やっぱりそこまでか。気持ちが急速に萎えていくのを自覚しながら、私は妙に納得していたのを覚えている。
 となりの駅までしか家出できなかった謡子は、アパートに越してからも、彼が食事をしているかどうか、ときおり見に帰ったりしていた。
「彼ね、トマトばかり食べてるって言ってたわ」
 私のアパートに来て、謡子はそんなことを言う。私は黙ってそれを聞いていた。

     春

 道の両側に参詣客相手の幾つかの店と本山に付属する小寺院が並んでいて、まっすぐに延びた道の突き当たり、数百メートルばかり先がこんもりとした丘になっていた。晴れ上がった空からの柔らかな春の光に包まれたその丘全体が、常緑樹の緑と満開の桜の薄紅色で、まだら模様に覆われている様子は、なにか不思議な気配を感じさせた。角を折れた途端、目に飛び込んできたその光景を前にすると、謡子は、
「わあ、すごいねえ」
 と感嘆の声を上げたが、私が、
「うん」
 と気のない生返事しか返さないでいると、
「ううん、もう」
 と一瞬さげすむような目つきで私をにらんだ。その目は冷酷で、美しいものへの感動を示そうとしない男に対する、露骨な軽蔑のようなものが表情の中に浮かんで消えた。
 東京南部の住宅地を走っている東急線の池上駅周辺は、私たちの散歩コースになっていた。普段の日中なら人影もまばらな池上本門寺の長い石段も、さすがにその日は桜見物の人たちの昇り降りで賑わっていた。ならんで石段を登りきり、丘の上に建つ山門をくぐって中に入ると、正面に大きな黒い伽藍があって、白い砂利を敷き詰めた広い境内の左手には、何本かのソメイヨシノが大きな桜色のぼんぼりのように、すくっと立っていた。向かって右手は広い墓地になっていて、黒い伽藍と墓地とを区切るように一列に植えられた桜が満開に咲きこぼれ、その奥一帯に、無秩序に植えられた喬木の緑と桜の淡い色合いが、墓地にまだらの陰を落としているのだった。
 再び小さな感嘆の声を上げた謡子は、桜の咲く広い墓地の中に、どんどん先に立って入っていったが、大きな桜の木の下で立ち止まると、振り返るようにして私の顔を見た。
「青木君、やっぱり何か欠けているんじゃない」
「俺もそう思うよ」
 と私は答えた。
「こんなにきれいな景色を見て、顔色も変えないんだから」
 謡子のそういう言い方は、言葉になり得ないもの、論理化され得ないものへの無関心とでもいうような、私の心のありようを指していた。言葉と論理の力を信じ、非合理に満ちたこの世界を、言葉と論理の力で裁断しようとしてきた十五年の間に、私が失ってきたものを指摘しているように思えた。
 本門寺は由緒のある寺で、葬られている者も皆、上流の人々なのだろう。墓地はどれも立派で大きく、合間に植えられている木々もみな大きく太い古木だと見えて、高く広く張った枝に春の光が遮られた地表は薄暗い。木洩れ日を横切って落ちてゆく花びらの行方を追うと、湿り気を帯びて苔むしたそこここに、花びらが吹き溜まって張り付いていた。視界の焦点が定まらなくなって、無数の花びらの輪郭がぼおっと霞んだその向こうに、十五年前の情景が浮び上がった。
 「不正を前にして黙すること、社会に存在する不平等を知りながら、社会の階段を登ろうとすることは加担することだ」。私はそう言い放ち、社会的矛盾の存在は認めながら、その社会に職を得て声を上げようとしないと父を指弾し、自分は高校を退学して東京に行き、労働者になると宣言していた。職人の息子として生まれ、苦学して大学院へと進み、大学で教える化学者となった父は黙していた。その生い立ちと関わりがあるのかどうか、リベラルな心情を持つ父は、高校生の私を一個の対等で独立した人格とみなした。社会変革のために生きるとしても、まだ勉強することがあるという説得を、私が「それは闘いから逃げる口実でしかない」とはねつけたとき、父親としての権力や腕力に訴えてまで、私を止めようとはしなかった。そんな父が歯がゆいと、母が何かを叫んで手近の物を投げていた。「兄貴はそれでいいけどな、こんなになった家に残る俺はどうなるんや」。泣きながら食ってかかる中学生の弟にも、私は青白い視線を向けただけだった。その次の日に私は家を出た。確かにあの時、私は何かを失ったような気がする。
「青木君、何考えているの」
「うん」
 私の腕に手を回しながら、謡子は黙ってしまった私に問いかけた。
「花も草も木も、見ないで生きてきたなあって」
 と私は言った。少しの間の沈黙の後、
「まあそれでなきゃ、やってこれなかったんでしょ。許してあげるわ」
 私の二の腕に手を巻きつけて歩きながら、そう言って謡子は微笑んだ。墓地はずっと奥のほうまで続き、薄紅色と深い緑の交差するトンネルも続いていた。私は墓地での花見という行為に何となく違和感を感じたのだが、謡子はまるで気にならないらしく、さらに奥へ奥へと私を連れて行った。
「再会するまでは、青木君みたいに生きたい、なぜ私には勇気がないんだろうって、思うこともあったけど、職場に行って青木君たちを見たら、私にはとてもできないことが一瞬で分かったわ」
「あなたは心がむき出しだからね。労働現場は無理だよな。俺は時々、自分には感情が無いんじゃないかって思うくらいだから。まあ、人はその持ち場で頑張ればいいさ」
 私はそう言い、謡子は、
「うん」
 と言ってうなずいた。
 トンネルの向こうから微かに子供の声が聞こえてきて、声のする方に歩いていくと、墓地の裏手、丘の向こう側にあたる一段低い所が、ジャングルジムやブランコの置いてある児童公園になっていた。丘を降り、ぐるっと回って公園に入ると、平日の昼下がり、若い母親たちがまだ学校に上がる前の子供たちを遊ばせながら、数人ずつかたまって喋っていた。ずいぶん歩いた私たちは、木陰のところに一つだけあいていたベンチに腰を掛けると、むやみやたらとその辺を飛び回っている子供たちの様子を、しばらく目で追っていた。
「小さい頃、よくいじめられたのよ、私」
 ボールを蹴飛ばしている子供の方に、視線を向けたままで謡子が言った。
「そうだろうな」
 と言うと、
「えー、わかる」
 そう言って、さも驚いたという顔をして向き直った。
「あなた頭はいいけれど、雑巾縫えなかったり走ってもすぐ転んだり、そういう子はいじめられるよ」
「そうね、私不器用だから。家庭科と体育はずっと1だったのよ」
 秘密を打ち明けるような口調で言った。
「後ろの席に座ってた男の子がね、何かの拍子に、お前いっぺんお尻見せてみろ、できないだろうって言うから、それくらい平気よって、机の上に立って、ぺろんってお尻を見せたのよ。それからいじめられるようになって」
 大きな声で笑ってしまうと、謡子は眉根を寄せ、
「笑いごとじゃないのよ、大変だったんだから。物差しで叩かれたり、ランドセル切られたり。何よ、お尻くらい見せたっていいじゃない」
 とむきになって言った。
「そりゃ、尻は見せるな服は着てろっていう規範に、意味なんかないけどな」
 私はたじたじとなった。
「私、間違ってると思ったら、誰が相手でも、それは違うって言い張るでしょう。一度、先生の言ってることもみんなの言ってることも、間違ってると思ったことがあってね、私一人とクラス全部の討論会になったのよ。それから、ますますいじめられるようになって、もう誰も私の隣に座ってくれなくなったわ。父親に、何で泣いているのと聞かれて、毎日のことがつらくて泣いているのって言ったから、びっくりされたことがあるのよ」
 体がぶるっと震えたように見えた。
「小学校で、私を好きになってくれたのは共産党員の音楽の先生だった。その先生、私に毛沢東語録をくれたの。デモ行進にも連れて行ってくれたわ。もう一人、優しくしてくれたのは、日曜学校の牧師さん。私に優しくしてくれたのは共産主義者と牧師さんだから、私、恩返ししなくちゃならないの」
 そう言うとまっすぐに私の瞳を見つめた。一瞬、木漏れ日が謡子の顔を照し出したような気がした。
「そんなだったから、大衆は愚劣だ、愚劣な大衆に依らない、知性による革命が必要だっていう、京極君の理論はすぐ理解できたわ。彼は、子供作っても学校にはやらないで英才教育するしかない、自分も、小さい頃からフランス語なんかを特別に教えてくれてたら、もっと業績を上げられたのにっていうのよ。エコール・ノルマルに入れないなら、学校にやっても仕方がないって」
「それ、何なの」
「知らないの? サルトルなんかが出た、フランスのエリート養成機関。彼は働いてくれないし、そんなとこに子供入れられるわけない。子供はつくれないって諦めてたの。それがね、青木君みてたら、やっと子供を普通の学校に入れてもいいと思えてきたわ」
「そうだな。普通って、けっこう大事だよな」
 と私は言った。一つの感慨が沸いてくるのを感じていた。
「俺も小さいころから、自分は人とは違うんじゃないか、違うんじゃないかって思ってきたところがあったな。あの中学の頃も、学生たちが退学覚悟で大学批判してるのに、そこをめざして受験勉強ばかりやるのは間違ってると思ったけど、みながそうなら、そちらのほうが普通なのかなって…。いいや自分は違わない、俺は俺で普通なんだって思えるようになったのは、やっぱり東京に来て働きだしてからで、それから随分自信がついたな」
「私は普通かなあ」
「ああ、どこから見ても普通だよ。絶対に普通」
「そうかなあ。だけど私、子供作ってもPTAだけはとても無理だわ。謡子ちゃんに勉強で勝ったらピアノ買ってあげる、ぐずの謡子ちゃんなんかに負けるなって、子供を煽った千里団地の奥さんのこと、今思い出しても吐き気がしてくるもの。あんなのが普通なら、私、願い下げだわ。青木君、PTAにはあなたが行ってね」
「分かった、分かった。俺が行ってやるよ」
 私は笑いながら答える。そして、PTAに誰が行くかを、深刻な表情で悩む前に、彼とはっきり別れることが先だろうにと思った。
 私は謡子を見ているといつも、心になにがしかの不安、何かに対する畏れの感情を抱えているような気がした。一つの不安が解消すると、また違う不安の対象が現れる、ある人への畏怖の念が消えると、また誰かを畏れる感情が生まれる、そんな気がした。そしてそれは、不安の対象、畏れの対象が現実に存在するというよりも、むしろ謡子自身が内面に、純粋な不安、純粋な畏れの感情を持っていることの現れではないかと思った。いつも持っているそんな気持ちは、子供のころ学校で孤立し、みなからいじめられた苦しい思い出と無関係でないような気がして、そして、私は、謡子のそんな不安と畏れの感情を取り除くことは、不可能ではないと思っていたのだが。
 火のついたように泣く子供の声がして、転んでどこかを打ちつけた子供のところに、少し離れた場所から、若い母親が飛んでいって抱き起こした。母親の顔を見た途端、一段と大きな声をあげて泣き始めた子供を、何か言ってあやしていた。その子の泣き声にせかされたわけではなかったが、私たちはどちらからともなく立ち上がった。
「さあ、夕方までに事務所にいかなくっちゃ」
 謡子は小さく伸びをしながら言って、また先に立って歩きだした。

 その日の夜、夕闇に包まれた虎ノ門のビル街にはシュプレヒコールの声が響いていた。
「仲間のー命をかえせー 分割民営化にー反対するぞーー」
 青い菜っぱ服に赤い鉢巻きをした二、三百人ほどのデモ隊がビルの谷間を抜けて行く。
 八六年に入ると、国労組合員の自殺がぽつぽつと報道されるようになった。組合からの強引な脱退強要が背景にあるという、国労の抗議とマスコミの取材に対して、国鉄当局は、自殺者の数は通常年度比で統計上の誤差の範囲内にあるという趣旨の回答をしたが、分割民営化の過程で、百人を越える国鉄労働者が自殺したのは、紛れもない事実である。
 機関車の点検と整備の仕事を追われて駅の売店に配置転換され、「国労を抜けなければ戻さない」と言われて、独身寮の屋上からダイビングした青年の遺影には黒いリボンがかけられ、胸の前にそれを抱えた若者は固い表情で、まっすぐ前を見ながら歩いていた。国労青年部のデモ隊は、死んだ青年の遺影を先頭にビル街を通り抜けるのだが、近代的なビル群の様相の中では、その姿が不釣り合いに感じられるのは否めない。きれいに磨かれたガラスと鈍く光るステンレスでできた高層ビル群と、そこから吐きだされてきた人々にとっては、デモも菜っぱ服もシュプレヒコールも別の世界の物だ。少しの驚きと、少しの軽蔑が混じったような視線をちらっとあてるだけで、人々はデモ隊の横を通り過ぎていく。
 そんな中で、歩道橋の下に立って、デモ隊に向かって夢中で拍手している女がいた。それを見て、デモの中の一人が横のやつを肱でつついた。
「おい、あそこで拍手してるの、青木さんの彼女じゃないか」
「え、ああ、そうだ」
 立花と小田島は謡子に向って手を振った。隊列の中から自分に向かって手を振りだした二人が、私の職場の仲間だと気がついた謡子は、デモ隊と並んで歩道を歩き始め、両手を口のところに持ってくると大声を出した。
「ねー、わたしー、明日品川駅にー、行くのよー」
「俺も居るからねー、待ってるよー」
 小田島が大声で返事を返した。
「じゃあねー、青木君にー、待っててーって、そう言っといてー」
「分かったよー」
 再び小田島が、体を後方に捩るようにして、遠ざかっていく謡子に大声で返事を返した。
「頑張ってねー」
 そう怒鳴ると、謡子は立ち止まってまた拍手をはじめ、デモの隊列はまたたくまに謡子を置き去りにして過ぎていく。前方の宣伝カーは高架を走る山手線のガードにさしかかり、それをくぐって銀座方面に左折しようとしていた。
 ピリピリッピリッっと、デモを指揮している若者の笛が鳴った。
「わぁーっしょい」
 隊列の横を歩いていたハンドマイクががなりたてると、それまでぶらぶら歩いていたデモの隊列は、横五人が腕を組み前の者のベルトを持ってジグザクデモを始める。
「首切りっ」「粉砕っ!」
「闘争っ」「勝利っ!」
 腕を組み前の者の腰を持って、屈み込む姿勢になって全員が下を向いた隊列から、ハンドマイクの大きな声にあわせて、くぐもった低い声が響き返す。鋼鉄とコンクリートの塊でつくられたガードの下ではハンドマイクの音が反響し、ジグザグデモを押し止めようとする、制服警官のピリピリッという笛の音、遠くの警備車両の高性能メガホンが、
「ジグザグデモをただちに止めなさい。東京都公安条令違反です」
 と繰り返す音も混じり合ってガンガンと響きわたる。
「首切りっ」「粉砕!」
「闘争っ」「勝利!」
 先頭はもう、ガードの先の交差点を左折して銀座の通りにさしかかっていた。
 きらびやかなネオンが輝き、左右のビルから突き出した、さまざまな店の名を書いた、星の数ほどの看板の下では、道路は暗く菜っぱ服も暗く、黒い隊列から発せられるくぐもった掛け声が、春の銀座の宵闇に低く垂れ込めていた。

     *

 翌日の品川駅は、広い構内にかげろうが立っていた。
 東海道線品川駅には、東海道線、横須賀線、山手線、京浜東北線の四つの電車がとまる七つのホームがあるうえに、貨物線や新幹線も構内を走っている。線路が、扇のように広がったり、ぐっと近づいて交差したりしながら、広い構内を覆うように引かれ、あちこちに電車区や車掌区の建物、構内で働く者の詰所などが点在している。
 様々な色や形の電車や列車が客を乗せて行き交い、入れ替え作業のために、先頭に旗を持つ誘導員を乗せた回送列車が徐行している構内には、岩石を砕いてつくる尖ったバラスが敷き詰められ、車輪がレールを削ってできる錆びた鉄粉が、線路端のひしゃげた雑草まで覆って緑は見当らず、透明な春の日差しが白茶けた地面を照らして、遠くの建物、レール、架線や信号機が、ぼおっと熱せられた空気の向こうに、ゆらゆらと揺れていた。
 鉄道で働く者にとって、大きな駅の構内のこうした風景には、何か甘酸っぱい感傷を誘うところがあるものだけれど、駅を利用する一日に何十万人もの人々にとっては、どうということもない日常の風景で、鉄道が人々を、会社に、学校に、家路にと、黙々と正確に運んでいることに、何も変化はなかった。
 しかし、そうした日常の風景のうしろでは、職制と労働者の、当局側に立つ組合とそうでない組合との、息の詰るような鍔競り合いが演じられていた。分割民営化まであとちょうど一年。当時、現場での当局側の仕事の一切が、残された一年の間に、労働者を、新会社に採用する者と弾き出す者に振り分けることと、分割民営化に反対し、抵抗を続ける国労を解体することを中心に、進められていたと言ってもいい。現場の管理者もまた評価の対象であり、彼らにとっては、「国労から何人脱退させたか」が評価の基準だったから、彼らも必死だった。
 当時、国労品川駅分会は、本人の不在中に家に上がり込み、両親に向って「このままでは、上司として息子さんの将来に責任を持てない」と脅した事件、ジョギングのついでに立ち寄ったという体裁をとって、運動着姿で訪問して「意識改革しろ」とおどした事件、駅長室に連れ込んで脱退を強要した事件、喫茶店に呼び出して脅した事件の四件を、所属する労働組合や思想信条で差別することを禁じた法令に違反する不当労働行為として、労働委員会に告発していた。しかし、明るみに出るのは千に一つの行為であり、同じようなことがその日もまた、広大な品川駅のそこかしこで繰り返されているはずだった。
 私はその日、品川駅の七つのホームを結んでいる大きな跨線橋の中間に作られた、スチールパイプ製の臨時改札口にいた。すでに振り分けの終わった者と見なされ、露骨に「余剰人員」と言われていた私たちのための、「余剰人員対策」と名付けられた特別の職場だった。東海道線や横須賀線などの中距離電車から、山手線や京浜東北線に乗り換える乗客の切符を改めて、キセルをしている乗客から正規の運賃を取るのが、私たちに与えられた仕事だった。
 電車が到着し、どやどやと階段を上がってきた乗客が、一団となって臨時改札口を抜けていく。
「ご面倒ですが、乗車券を拝見します」
 スチールパイプ製の枠に尻を乗せた岩倉が、こころもちアミダに帽子をかぶって、乗客の差し出す定期券や乗車券を見ながら、投げやりな口調で声を出していた。午後になって、謡子は乗客に混じって、横須賀線ホームの方向から、茶色のスーツ姿でいつものように男物の大きな革鞄をさげてやってくると、岩倉に何か話そうとしたが、横の方でサボっていた小田島が、目ざとく謡子を見つけると、つかつかと近づいて、
「やあ、来ましたね」
 と話しかけた。
「青木君、います?」
「ええ、休憩室の方にいると思うけど。岩$がん$ちゃん、青木さん呼んできてよ」
 小田島は顎をしゃくって岩倉をうながすと、謡子の方に向き直って、
「けどさあ、あんなに大声出して、よく恥ずかしくないね。きのうはうつむいちゃったよ」
 と言った。そして謡子が、
「何言ってんのよ。事務所まで宣伝カーの声が聞こえて来たから、応援に行ってあげたんじゃない。感謝しなさいよ」
 と幾分気色ばんだ様子で言い返すのを、おもしろそうにながめていた。
 私は休憩室で雑誌を読んでいた。薄いドアの向こうで、どんどんと大きな足音が聞こえたと思ったら、ガタンとドアが開き、岩倉がぬっと首を出した。
「青木さん、彼女が来てるよう」
 頭から抜けるような疳高い声だ。折り畳み椅子を三つ並べた上に、器用に寝転んでいた佐伯が、
「岩$がん$っ、うるさいぞ」
 とどなり声をあげた。部屋の隅に座っていた堀之内も、岩倉の方に振り向くと、
「うるさいなあ、キンキンする声あげるんじゃないよ」
 と文句を言った。岩$がん$ちゃんはどうもいじめられやすい。むっとした顔をして、下を向いて少しぶつぶつ何か言った。
「何ぶつぶつ言ってんだよ」
 追い討ちをかけた佐伯に、顔をあげて、
「当局に泣かされた奴が、えらそうに言うなよ」
 と大声で言った。佐伯が、
「何っ」
 と言って体を起こしかけたが、持っていた湯飲み茶碗をテーブルに置いた松尾が、さもうるさいという顔をして、
「つまんない喧嘩するんじゃないよ。せっかく綺麗なお客さんが来てるのに、失礼じゃないかよ」
 と言い、しゃくれた顎で入口の方を指してみせた。まだ何か言いたそうにしている岩$がん$ちゃんの肩越しに謡子の顔が見えた。私は、
「やあ」
 と言って立ち上がり、皆の視線が謡子の方に集まって、口喧嘩はそれで終わりだった。松尾が、
「どうぞ入って下さい」
 と言うと、謡子は、
「お邪魔します」
 と言って休憩室に入ってきた。
「しかし、こんな時間に彼氏に会いに来られるなんて、いい仕事だよな」
 と松尾が言った。謡子はちゃかされているのだということが分からずに、
「ええ、本当に。ちょうど横須賀で仕事があって、その帰りなんです」
 と真顔で答えた。私はニヤニヤしている松尾に、
「ちょっと頼むよ」
 と言って、二人で休憩室を出た。臨時改札口の方から、私たちを冷やかす小田島の声がした。謡子が結婚していることを、職場の誰も知らなかったから。私は小田島の声には取り合わず、跨線橋上の広い場所に作られた喫茶店に謡子を連れて行った。
「大丈夫なの、お茶なんか飲んでて。仕事中に」
 向いの席に座った謡子が、心配そうな顔で言った。
「平気平気。この駅じゃ、俺たちは労務管理の対象外なんだ。どうせ、来年までだからっていうわけで、ほったらかしてるんだ」
 と私は言った。品川駅の助役は、毎朝二人で点呼を取りに来る。われわれの人数を確認し、
「襟に付けている不用なものをはずしない」
 そう言って、我々が制服の襟につけている、一センチ四方の組合バッチをはずせと命令する。こちらが黙っていると、
「服装の整正違反を現認$げんにん$します」
 と宣言して、命令に従わなかったことを記録に残す。後は新橋要員機動センターの労働者にはまったく関心を示さなかった。
「楽で楽で。ずっとこのままいたいくらい」
 私は冗談を言った。
 謡子は、年上の女性弁護士と一緒にやってきたという、横須賀での仕事の話をひとしきりしたあとで、
「さっき、何喧嘩してたの」
 と聞いた。
「いや、大したことないんだ。この前、管理者に泣かされたやつをからかったら、怒り出したんだよ」
 と私は言った。
 佐伯は国労新橋要員機動センター分会の青年部長なのだが、応援に行った駅で、組合の作った「不当労働行為点検・摘発メモ帳」というのを、制服の胸に差しているのを、たまたま鉄道管理局から来ていた人事課員に見とがめられて駅長室に連れ込また。管理局の労務屋と駅の助役五人に囲まれて一時間も恫喝され、ついに泣きだしてしまったのだ。
「もう今の国労には、物事をどうこうする力なんかないんだよ。俺にはな、金も権力もあるんだ。お前なんかそんな手帳、胸に差して突っ張ってると、来年の今頃は街角に立って、首切り反対ってハンドマイクで喋ってる争議団にしてやるぞ」
 こう言って佐伯を悔し泣きさせた管理局の人事課員に、私たちは「金と権力の丸岡」とあだ名をつけたが、こんな連中が掃いて捨てるほどいた。一緒に仕事していたやつから話が広がってしまい、最近、佐伯はそのことを言われるたびに怒るのだ。
 ことの顛末を聞いていた謡子が、
「男子高みたいねえ、青木君たちの職場」
 と変なことを言った。
「ええ?」
「このあいだから、青木君たちのことを見てて、そう思ってたの」
「そう言われてみれば、そうかもしれないな」
 そんなことを言われたのは初めてだったが、若い男ばかりの私たちの職場は、そんな雰囲気なのだろうか。私は謡子の比喩に嬉しそうな素振りをした。すると今度は、
「でも、そういうのを潰そうとしてるんでしょう」
 と言う。そのとおりだった。
「まあね」
 同意するしかなかった。私が「もう一つの世界」への入口だと信じて生きてきた、労働者の世界は、政府と国鉄当局、さらに財界やマスコミまで加勢した力によって、解体されようとしていたのだから。「そういうのを潰そうとしてるんでしょう」。悲しそうな表情で、同情を込めて言ったとき、謡子は謡子なりに、私と仲間たちが生きてきた世界を、確かに捉えていた。それは、私がそこに込めてきた意味や、仲間たちが意味など求めることなく、自明の世界として生きてきた感性とは別のものであったが、しかし、謡子は確かに私たちの側にいた。今、私はもう、私たちのいたその場所が、本当に「もう一つの世界」へと繋がっていたのかどうか、確信を持って言うことが出来ない。しかし、日々の労働と、経営者や政府との日々の闘いによって、編み上げられてきた世界、敗戦直後から、鉄道の中に営々として作り上げられてきた労働者の世界は、確かに存在した。そして、まだ若い私たちは廃屋五階の収容所の中で、私たちなりの仕方で、その世界を受け継いでいたのだ。しかし、私たちが守るその場所は危機に瀕していた。歴代の保守党政権が手を焼き続けた世界、お上$かみ$に対抗して、働く者が作り上げてきた世界を叩き潰すために、国鉄労働組合を解体するために、奴らは国鉄自身を解体しようとしていたのだ。
「ねえ、今晩、私のアパートに来る?」
 謡子は、はじめて自分のアパートに私を呼んだ。

     *

 新宿駅で地下鉄に乗り換えると四つ目が新高円寺の駅で、階段を上って外に出ると、とっぷり暮れた青梅街道は、家路を急ぐ自動車の騒音とヘッドライトの光で埋めつくされていた。私は、ワーンと響いてくる騒音に気おされながら、電話をさがしてダイヤルを回した。呼び出し音が聞こえるとすぐに謡子が出て、
「今、新高円寺の駅前です。目印を教えてくれますか」
 と改まった口調で聞いた私に、いくつかの目標を教えた。買ってきてほしいと言われたパンをベーカリーで買って小脇に抱えると、私は言われた通りに歩き出した。
 細い通りを何度か折れると、もう自動車の音は聞こえてこない。目印のコンビニエンス・ストアを見つけてその前を曲がり、さらに歩いて行くと、左手にやけに高い煙突が見えた。一瞬、風呂屋の煙突かと思ったそれは、風呂屋のものよりもずっと大きくて、もう一つ角を曲がって、「ウィステリア・マンシオン」という大層な名前のついた、謡子の新しい住まいに着くと、狭い道路をはさんだ向い側の車庫に霊柩車がとめてあったので、火葬場の煙突だということが分かった。実のところ、この時から私はその煙突と斎場の建物を見るたび、気味の悪い思いをしたのだが、その時、そんなことを言ったら謡子に軽蔑されるだろうと思ってから、一度も話はしなかった。謡子の友達から、「気にならないのって聞いたら、こういう所に住んでた方が、長生きするのよと言って、ケラケラ笑った」という話を聞いたのは、ずっと後のことだ。
 「ウィステリア・マンシオン」は、いかにも、細い鉄骨に新建材を張りつけましたというできぐあいの新築の賃貸マンションで、階段を上がるとボコボコという乾いた音がした。教えられた三階の部屋の前に立ち、深く一呼吸してからベルを押した。
 ピンポーンという音と共に、待っていたかのようにドアが開き、謡子は、
「いらっしゃい」
 と押し殺したような声で言うと、私を中に入れた。うしろでドアの鍵が掛かる音がして、振り向いて立ったまま抱き合うと、謡子は息を詰めて私の胸に強く顔をうずめた。背を丸め首をねじって、右頬を私の心臓あたりに押しつけ、私の背に回した手に力を込めて、不安を打ち消すための力を私の体に求めてでもいるように、じっと動かない。それはいつものことで、この時も、上を向かせて唇にキスをするために、少し力をいれて謡子の体を引き離さねばならなかった。
 八畳ほどの広さのワンルームにアクリル製のピンクのカーペットが敷かれ、軽い合板で作られた白い机と本棚、そして、スチールパイプ製のベッドと衣裳掛のほかに大きな家具は何もない部屋を、真新しい蛍光燈の白い光が満たしている、そうした様子が、彼といた家から慌ただしく飛び出してきた、仮の住いであることを示していた。部屋の隅に、今どき珍しい木製のちゃぶ台がたてかけてあった。謡子はそれを指差して、
「広げてくれる」
 というと、私に背を向けて流し台の前に立った。
「珍しいねえ、ちゃぶ台」
「古道具屋さんで見つけたのよ。この部屋の中でそれが一番気にいっているの」
 小津安二郎の映画に出てきそうな、古い小さなちゃぶ台の丸いへりを私は撫でていた。謡子は首だけ回して振り向いた。
「何だかそれを見ていると、落ち着いた家庭ができるような気がするの」
 底の深いアルミ鍋をレンジに掛けながら言った。
「ラタトゥイユ作ったのよ。今、温めるから」
「フランスの料理?」
「何も知らないのね。フランスの家庭料理よ。好きだからよく作るの。京都にいた時は彼も私も学生でお金がないでしょう。実家には父のもらい物のワインなんか山ほどあるから、高いワインをアパートに持って帰って料理に使ったり、変な生活してたな」
 父親が高名なフランス文学者だということを、謡子が私のアパートに来るようになって、しばらくしてから知った。
「彼とのことは、ずっと両親と折り合わないままだったの」
「父は自分の弟子と私を結婚させて、跡継がせたいとでも言い出しかねないような人だから。『女子供は…』なんて、差別する言葉を平気で本に書いたりするのよ」
「それくらいなら、並みの親じゃないか」
「青木君も、もし会ったら嫌なこと言われるよ」
 私はいきなり胸ぐらを、ドンと突かれたような気がした。
 謡子は家を出たことさえまだ両親に告げていなかった。私は、彼と別れたとはっきり言ってほしかったのだが、その一方で、私の存在をまだ両親に知られたくはなかった。それは、謡子に再会した時、確かに感じた「しめた」という気持ち、少年の頃、進んで断念しておきながら、今ではもう、望んでも入り込めないという思い、羨望と後悔の念の募るのを抑えられないでいた、「質の高い、上流の世界」に、この女なら連れていってくれるだろうという気持ち、けっして口にすることのできない打算への、後ろめたさからだった。信じやすい娘を騙した左翼の活動家を、口を極めて非難する両親の姿が浮んでくるようだったが、その時、私は内心の動揺を気取られなかったはずだ。
「若いころはベ平連で、アメリカ兵の脱走助けたりしてたんだけど。あの頃、ベトナム人と殺しあいするのが嫌で、日本に寄った軍艦から、脱走してスウェーデンなんかに行った兵隊がいたでしょう」
「そういうことあったねえ。だけど、軟禁されてデモに行けなかったなんて言うから、親父さん、てっきり保守だと思ってたけど」
「あの頃から娘には反動だったけどね。体質はアナキストかな。けど今はもうだめ。このごろ、京都や大阪の企業が『関西文化圏の復権』なんてことやってるでしょう。世間知らずだから最近はそれに乗せられて。加担しているわけよ。それで金がいっぱい入ってきて、私の一ヵ月の生活費、先斗町$ぽんとちょう$で一晩に使ったりするのよ」
「まあ、変っていった人はいっぱいいるからね」
 「加担している」という固い言い方と、それを話す表情の間に、どこか違和感があるとかすかに感じた。
「パンを切って頂戴。それから、そこの器、取ってくれる」
 私は買ってきたフランスパンを斜めに二切れ切って、オーブントースターに入れた。茄子、トマト、きゅうりなどをおおぶりに切って煮込んだ料理は、ニンニクが効きすぎていた。でも、そんなことを私が言うわけはなく、少しのビールとフランスパンとラタトゥイユを、私たちはうきうきした気分で、ちゃぶ台に向き合って食べた。
 食事を終えて、お茶を飲んでいると、謡子は、
「私、ひょっとしたら東アジア反日武装戦線の事件、やるようになるかもしれないの」
 と唐突に言った。七四年に丸の内の三菱重工ビルを爆破して、多数の死傷者を出したグループの名前を聞いて、私は一瞬いやな顔をしたかもしれない。何もあんな事件まで引き受けないでもいいのにと思ったのだ。
「今でも手いっぱいで、フーフー言ってるのに。大丈夫なの」
「大丈夫なわけないでしょう。けどねえ、是非って頼まれてるのよ」
 まだ弁護士になってまもないというのに、謡子はすでに、三里塚の事件など公安事件を三つも引き受けて、つい先日も、これから何年かの間、月に何度かずつ、手のかかる公安事件の公判が続くことに後から気がついて、愕然としたばかりだった。
「ねえどう思う」
「そりゃ、あなたが決めるしかないでしょう。でも、この間もいやなことがあったって言ってたじゃない」
「あの事件は、ネクタイ締めた幹部が威張ってるのよ。まったく気にくわないわ。弁護人に、他のセクトを反動=反革命だって、陳述してくれって言うのよ、そいつ。あの事件は、向こうの方から解任してくれたら楽なのになあ」
「貴重な弁護士、解任するはずないだろう」
「そうよね」
 私の顔をのぞきこむようにする謡子の仕草を見ながら、私は、結局は今度の依頼も引き受けるのだろうと思っていた。
 新左翼の公安事件を引受ける弁護士が、しだいに少なくなっていったのは、金にならないから、社会的に孤立するからということだけが理由ではない。非人間的な管理社会から人間を解放すると宣言した新左翼運動自身が、その内部に非人間的原理を色濃く孕んでいる事を暴露してもう久しかった。持てる者たちが繰広げる富と名声をめぐる争いと、まったく同じ原理で、持たざる者たちの中、左翼や労働運動の閉鎖された内部でも、主導権をめぐる争奪戦が演じられていることを、人々が強く感じるようになってから、だいぶ年月がたっていた。
「嫌になったって、手を引く人はいっぱいいるけどね、やっぱりそれはちょっとおかしいと、私はそう思うわけよ」
 演説するような口調で謡子が言った。
「それはそうだな」
 と私は答えた。いつも結論しか言わないけれど、たいてい私は謡子の結論に目を見張った。
「被告に会ってくれって言われているの。それから決めるわ」
 そう言って、謡子は話を打ち切った。
 スチールパイプ製のベッドの下に蒲団袋が押し込んであって、随分夜が更けたころ、謡子はそれを引っ張り出すように言った。中に一人分の蒲団が入っていた。
「これを床に敷いてね。青木君の分だから。私はどうしようかな。ベッドと床に、別れて寝てもいいんだけど。どう」
 ニヤッと笑った。
「並べて敷こうよ」
 と私が言い、私たちはベッドの上の蒲団も床に下ろし、ふた組の蒲団を並べて敷くと、もう部屋はいっぱいだった。
「毛布をね、こうして使いたかったの、ずっと」
 蒲団にもぐり込んだ謡子は、新しく買った、毛足の短い白いウール毛布の手触りを確かめていた。
「カバーなしで使うのは下品だって、彼と彼の親に言われて、ずっと毛布カバーを付けていたの。この方が気持ちいいよね」
 毛布を裸で使えることが、この上なく幸せそうだった。ぬくぬくと手足を伸ばしている謡子を見ながら、毛布にカバーを付ける習慣など、教えられたこともない私は、そんなものかなと感心していた。
「事務所の野々村さんにね」
 毛布から顔の上半分だけをのぞかせて、弁護士事務所で一番信頼している、年上の女性の名を言った。
「事務所の野々村さんにね、青木君から、あなたは絶対に普通の人だって言われたわって言ったら、高校を中退して放浪してるような人から、普通だって言われても意味ないわよだって」
 毛布からのぞいている二つの目が笑っていた。

 こうして、私たちは一日の仕事を終えると、どちらかのアパートに一緒にいる日が多くなっていった。
 私が行くようになってまだ日がたたないころ、謡子の部屋に寝ころびながら、いつものようにとりとめのない話をしていると、電話のベルがなった。謡子はびくっと飛び起きると、サッと顔を緊張させて、私に強い視線をあてた。
「静かにして。動かないでいて。彼は、音にはほんとに敏感だから」
 なぜ彼からの電話だとわかったのだろう。私は体を固くして息を詰めながら、私に背を向けたかっこうで受話器を取る、謡子のうしろ姿を凝視した。
「ふうん、そう。仕事は進んでる? そう。御飯は」
 受話器を取ると、謡子は意外にも明るい声で話し始める。私の知らない幾人かの名前が謡子の口から出て、彼が書こうとしている論文の進み具合を聞き、そして、励ましている様子だ。三分ほど話してから、
「それじゃあね」
 と言って受話器を置いた謡子は、ゆっくり振り返ると、
「わりと明るく話していたでしょう。意外だった」
 と言い、固い表情で私を見つめた。私は無言で首を縦に振って、息を吐きながら同意した。
「京極君と私はずっと、夫婦というより家族という関係だったな。京極君が子供の時は私が母親で、私が子供の時は彼が父親で」
「……」
「大丈夫かなあ。彼を不幸にして、私だけが幸せになれるかなあ」
 みるみるうちに顔の輪郭が崩れてゆき、唇がまくれあがり目から涙があふれると、謡子はワーワーと泣き出した。私は呆然として泣き声を聞いていた。少し泣き声が小さくなって、ようやく、
「大丈夫だよ。うまくやれるよ」
 と言った。謡子は、
「大丈夫かな。そうかなあ」
 と、しゃくり上げながら言ってまた泣いた。
 同じようなことが二度ほどあって、その度に、一度彼との間でうまくいかなかったのなら、また失敗するのではないか。彼を不幸にして、自分だけ幸福になれるのだろうかと、謡子はそう言って泣いた。私はそのたびに、「大丈夫だ」と言い、謡子は「そうかな、そうかなあ」と言って、それからまた泣いた。
 彼が、その頃「ニューアカデミズムの旗手」と呼ばれ、頻繁にマスコミに登場していた友人と共に参加した鼎談が、大手の総合雑誌に載ることを知らせてきた時も、私はそばにいた。謡子は、
「彼の出た座談会が『ジャーナル』に載るんだって」
 と言った後で、この時も大きな声で泣き出した。
「こんな日が来るように、来るようにって、ずっと願って来たのに。よりによってその日に、家を出てるなんて」
 そう言ってまた泣いた。
「私の心の中には良い子と悪い子が居てね。彼が論壇で売り出すんなら、青木君と居たら損だって思う心があるわ、私」
 しゃくりあげながらそう言うと、再び無防備な醜い顔で泣く、謡子の泣き声が私の心を射て、謡子を自分のものにしたいという、自分自身の心の中にある打算を私は強く意識した。このままいけば俺は野垂れ死するかもしれないと、心のどこかで思いはじめていた時に謡子と再会した、その時の気持ちを意識した。しかし私は、「俺の心の中にも、良い子と悪い子が居てね」とは切り出すことができず、ただ黙然として謡子が泣きやむのを待っていた。

     *

「『腹腹時計』持って帰って来た。見せてあげるわ」
 東アジア反日武装戦線の事件のうち、一人逃亡を続けて八二年に逮捕されたために別公判となった、平沼洋一さんの控訴審を引き受けた謡子が、彼らの発行した奇妙な名前の爆弾教程=「腹腹時計」を私のアパートに持ってきたのは、もう初夏といっていいような季節になった頃だった。
 それを元に、彼らの作った爆弾の威力や爆発した時の状態を解明して、弁護に役立てようとしているのだが、実験するわけにもいかないから苦労すると、冗談ともなくこぼしていたのは何日か前のことだった。現物を手にした者はあまりないだろう、薄いパンフレットを見せる様子が、まるで子供がお気に入りのおもちゃでも見せる時のように、浮き浮きしていた。私は不機嫌になった。爆弾テロには反対だし、それに、おもちゃにして面白がるような代物ではない。すると、私のそういう顔色を察した謡子の顔は、見るまに泣き顔に変じていった。
「私のしてる仕事には、絶対に嫌な顔しないでよ。おもしろがって二人で見てくれたらいいじゃないの。だいいち、私、爆弾投げる人、好きよ」
 ワーワーと泣きながら、途切れ途切れ「爆弾、投げる人、好きよ」と言った言葉の中に、謡子の心根が浮かび上がっていた。そしてそれは、「爆弾魔」を見る世間と同じ視線を、謡子とそして謡子を通して平沼さんたちに当てた私への、精いっぱいの抗議でもあった。
 小学校で、謡子の頭を物差しでたたいた男の子、もっとやれと囃した級友たち、「あんまり頭がよくなったら、いいところにお嫁にいけへん」と、勉強をしなくなった中学校の同級生、官僚や銀行員になりたくて、大きな教室の前のほうから、いつも我さきに席を埋めていった法科の学生たち、「女は結婚して子供を生むのが幸せなんだ」と公言する司法研修所の教官と、その教官に媚を売る修習生。謡子はいつも「こんな愚劣な者たちと私は絶対に違う」と思いながら、もう一方で、そういうものと闘って勝つ自信を、ほんとうはまるで持っていなかった。謡子を見ていると、闘う、争う、ということに必要な強い心は、争う相手を傷つけ、心を打ち砕いても平気な鈍重な心でもあるのかなと思った。人と争うと必ず人の何倍も傷ついてしまう謡子は、悪意に満ちた世間の中に分け入って闘うなど、とてもがらでは無かったけれど、想念の世界では本物の過激派であり、社会に向かって「爆弾を投げる人」の友だった。
「この間、東拘$とうこう$で小河原さんに会ってきたの」
 しばらく大声で泣いたあとで真顔にもどった謡子は、主犯としてすでに二審で死刑判決を言い渡され、東京拘置所に収監されている被告の名を口にした。
「御苦労をおかけしますって、丁寧に頭を下げられた。自分に死刑判決が出てるのに本当に落ち着いていて、平沼さんのことをいろいろ心配しているのよ。私、ああいう人尊敬するわ」
 視線が宙に浮いて顔が紅潮していた。ああ惚れたな、と私は思った。
「一緒に仕事する事になったのは川尻さんっていう人なんだけど、『爆弾弁護士』って言われているのよ、その人。爆弾事件ばかりやってるから収入がなくって、弁護士会の会費、月二万円払うのも苦労しているの」
 六畳と四畳半に小さな台所が付いただけの私のアパートの、開け放った窓から窓へと吹き抜ける初夏の夜風は心地よく、窓にもたれている謡子の、さっきまで泣いていた涙の痕を拭い去り、ふわっと肩までおおった髪を撫でていく。私の態度が変わったことで機嫌を直し、目を細め、気持ちよさそうに風に吹かれている謡子を見て、話を聞いている私も、だんだん満ち足りた気分になっていった。
「いい仕事になりそうだね」
「うん。なにか、みんなと気が合いそうだわ」
「でも、勝ち目はあるの」
「ううん、どうかなあ。建設会社の飯場に爆弾を仕掛けたことじたいは、争ってないんだけどね。殺意があったかどうかを問題にしよう。一審では、飯場の宿直員を殺害する意図を認定してるけど、その日、人が泊っていることは外からわからず、平沼さんたちは無人だと思っていたこと、爆弾を破裂させたのは象徴的な意味合いで、殺人の意図はなかったという点で争うことになったの。宿直室の電燈は毎日ついていたのか? ついていたとしても外から見えたのか? 山谷でビラ撒いて、当時働いていた人探そうっていう話もあるのよ」
「十一年前に働いていた飯場の宿直室の灯りが、毎晩ついていたか? 外から見えたかなんて、覚えてる人を探し出せるのか」
「まあ、本当にビラをまくとは決めてないけどね。どちらにしても、夏の間に百枚くらい書面書かなくちゃいけなくなった」
 弁護士になって一年あまり。謡子はこれまでで一番大きな仕事に、夏いっぱいをかけて取り組もうとしていた。

     夏

 ある駅の首席助役が朝の点呼で、「新橋要員機動センターの、いまどき全員で組合バッチつけていきがっている連中、ああいう奴らはもう行先が決めてある」と言ったとか、人事課の某が別の駅で「あいつらだけは絶対首にしてやる」と息巻いたとか、そんな話は何となく伝わるもので、そのたびに仲間たちは怒ったが、「首になる」実感というか、切迫した感じはないままに、日は漫然と過ぎていた。あっちの駅、こっちの仕事と、平気な顔で毎日を潰している仲間たちを見ながら、私など、こりゃ、ただ鈍感なだけじゃないかと疑ってしまう気配さえあったのだが、梅雨のさ中のある日の夜にそんな平穏を蹴破ったのは、やはり当局の方だった。
「…あなたを七月五日付で人材活用センターに発令しますので…」
「何?」
 夜七時過ぎに電話が鳴って、謡子かなと思って取り上げた受話器の向こう側から、念仏のような調子の助役の声が聞えてくるのだが、何を言っているのか、少しのあいだ分らなかった。文章を読み上げているのだろうか、妙に抑揚と感情のない助役の声がしばらく続いたところで、私は思わず「あっ」と声を上げそうになった。何日か前、国鉄が何万人かの余剰人員を、人材活用センターという新設の部署に配置するという記事が、新聞に載っていたが、その発令を電話で済まそうとしているのだ。次の瞬間、最後まで聞いてしまったら辞令を受けた事になると気がついた私は、
「今、あなたと電話で話すつもりはないから」
 と言うと、それでも一方的に喋り続ける受話器をガチャンと置いた。鼓動が強く早くなっていることが自分でもわかった。職場で通告したら、それこそ収拾のつかない大騒ぎになるから、電話で済ませてしまおうとしているのだ。まずい、皆の所にも同じことをしているはずだと思いあたった私は、置いたばかりの受話器をもう一度取り上げてダイアルを回していた。
 ルルッルルッルルッと鳴り続けるベルの音がまどろっこしい。ガチャという音がして女の声がした。
「はい、立花ですが」
「夜分恐れ入りますが、ご主人いらっしゃいます? 職場の同僚で青木というんですが」
「済みません、ちょうど今お風呂に入ってるんですよ」
「ちょっと急な用事なんで、呼んで貰えませんか」
「ええ?」
「呼んで頂けますか」
「ええ? そうですか。それじゃちょっと待って下さい」
 女房は明らかに不満そうだった。がたがたいう音、遠くで何か言う声が聞こえて、しばらくしてから受話器を持つ気配がした。
「風呂に入ってたんだよ、青木さん」
 いきなりでかい声が聞こえた。私は抗議の声を無視して、
「助役から電話がなかったか」
 と聞いた。
「ないよそんなもの。どういうこと」
「皆のところに電話をかけて辞令を読み上げてるんだ。人材活用センターって知ってるか? 余剰人員を一まとめにして発令するらしいんだけど。そう…新聞に出てたろう。…それでもうすぐ立花君のとこにもかかってくると思うんだけど…、最後まで話を聞いたら、後でどれだけ文句言っても、…そう、むこうは『発令は済んだ』って言い張るはずだから、……、本人が出なけりゃ一番だけど、話し聞かないで途中で切れば、発令したとは言わせないから、……」
 最初は非難がましかった立花の受け答えは、だんだん真剣なものに変っていき、私は、立花にも手分けをして仲間のところに電話をかけるように頼んで受話器を置くと、組合員名簿を片手に、仲間のところへ片っ端から電話をかけ続けた。

 翌日の朝、東京は梅雨の合間の晴天ですっかり夏の空だった。日中は蒸暑くなるのだろうが、空気はまだ熱を含んでおらず、入道雲もまだできていない。銀座のすぐ横の一等地、汐留貨物駅の廃屋五階に出勤した私が窓を開けると、がらんとした詰所の中を心地よい風が吹き抜けた。
 窓の下に、扇型に広がる何十本もの引き込み線と、幾つもの貨物用プラットホームのある広大な構内が見えた。その向こうに、駅の構内を巻くようにして、一段高いところを走る首都高速と、その下にある浜離宮の木々の緑が見渡せて、さらに向こうには、東京湾最奥部の河のように細いところを挟んで、晴海あたりのビルまで見えた。追い立てられてからもう一年以上が過ぎて、その風景も見慣れてしまっていたが、実のところ、私はそこからの眺めが大変気に入っていた。仲間たちはたいてい、収容所とだけそっけなく呼んだが、私は、部屋の一方が全部、腰から上のガラス窓になっている詰所のことを、一人勝手に「見晴らし荘」と名付けて悦にいっていた。
 その日、与えられた仕事がなく一日じゅう「待命$たいめい$」だった私は、昨夜のことがあったので早めに出てきたのだった。九時からの点呼の前に、皆の様子を聞いておきたかった。
 ガラガラと建て付けの悪い引戸が開いて下重が姿を見せた。
「やあ青木さん、元気ぃ」
 いつもの口癖だ。
「ゲンキイなんて呑気なこと言ってる場合じゃないだろう。きのう助役から電話なかったのか」
「何とかを発令しますってやつだろう。あれ、どういう事なんだ。またどこかに飛ばすのかって聞いたら、当分場所も仕事も変らないって言うから、そんなことで電話してくるなって怒鳴ってやったよ」
「どうも全員に電話が入って、人材活用センターに発令されたみたいなんだ」
「何なんだそれ」
 下$げっ$ちゃんはきょとんとしている。こっちからの連絡が洩れていて、まだ事態が飲み込めていないらしい。
「余剰人員の何万人かに、はっきりレッテルを張り付けるらしいんだ。点呼で言ったら大騒ぎになるから、電話で発令を済ませたことにしたらしい」
「来年四月にあなたは首ですってお墨付きか」
「まあ、そういう事だな」
「冗談じゃないよ。そんなこと何も言わなかったぜ、海野の野郎」
「最後まで聞いちゃったんなら、やつら、発令は済んだって言うだろうな。電話には出るな、切ってしまえって、手分けして連絡したんだけど」
「何で俺には連絡ないんだよう」
 入ってきたときの勢いがまるでなくなってしまった。下$げっ$ちゃんは、新橋要員機動センターで一年あまり、その前も余剰人員枠の不安定な職場で、国鉄に入ってからの七年のうち、半分近くまともな職場から排除されていた。何度かの配転のたびに、こんな深刻に考え込む苦悩の表情をしたのだろうか。普段は、ちょっと依怙地なところはあるがひょうきんな、下$げっ$ちゃんの眉根を寄せて下を向き下唇を突き出した、そんな表情を見るのは初めてだった。
 次々に仲間たちが出勤してくると、事態はだんだんはっきりしてきた。その日の朝出勤してきた十三人の仲間のうち、昨夜外出していた三人を除く全員に電話がかかっており、組合側からの連絡が先回りしたために、電話に出なかったり途中で切ったりして、当局側に朗読させなかった者が五人、あとの者は電話で助役が辞令を朗読するのを聞いてしまっていた。公休日だったけれど、職場に出てきた分会長の三木が事態を判断して方針を決めた。
「所長室に行って、清算事業団への選別解雇の先取りだって抗議したんだけど、話す事はない、上から辞令が降りてきた、の一点張りでらちがあかない。それで点呼で説明させようと思う。こっちの主張は、労働時間外の電話での発令は無効だという点が第一、その上で、人材活用センターという職場は就業規則にも労使協定にもないんだから、どういう職場でどういう仕事をするのか説明させるのが第二。それから、なぜわれわれが人材活用センターに発令されたのか、人選の基準を明らかにさせることが第三。これでいいな」
 三木は早稲田大学にいた時に社会党左派になり、労働運動をやりたくて国鉄に入った活動家で、さすがにこういう時はてきぱきとまとめあげる。
「さっき、所長室に樺島が入っていったぞ」
 と立花が言った。その名を聞いて、沖田がぴくっと眉を動かした。
「あの野郎、また、点呼で現認$げんにん$するつもりだな」
 と言った。樺島というのは、「運輸長室」という労務管理専門機関の助役で、ことあるごとに新橋要員機動センターの労働者を威しにくるやつだった。三木の意思統一を聞き、樺島が来ていると聞いて皆の顔が緊張してくる。さっきは深刻な顔をしていた下$げっ$ちゃんも、顔を紅潮させ、目つきが険しくなっていた。
 九時きっかりに、前の方の引戸がガラガラと開いて、助役の田川が妙にしゃちこばった歩き方で、われわれの方には視線を向けないで入ってきた。その後、助役の海野、所長の住田、助役の山内が入ってきて、それから大柄な樺島がドアのところで頭を潜らせるようにして入ってきた。われわれに視線を向けない要員機動センターの助役たちと違い、樺島は思い思いの長テーブルに座っているわれわれを陰険そうな目つきで見回していた。その後から見たことのないやつが入ってきた。たぶんこれも運輸長室の助役だろう。これで、たかが十三人の出勤確認に要員機動センターの全管理者四人と応援の管理者二人の六人がかりになったわけだ。全員が黒い表紙の記録簿を手に持っていた。
「出勤点呼を行います。全員起立」
 進行役の海野が掛け声をかけるが、誰も立ち上がらない。軍隊式の点呼を私たちは拒否していた。
「立ちなさい。拒否ですね」
 誰も、ぴくりとも動かない。
「…、西崎亨、青木伸一、下重隆」
 次々に名前が呼ばれるけれど誰もうんともすんとも言わない。二年ほど前に、点呼が「さん」付けから呼び捨てになって以来、返事はしないのだ。
「返事がないことを現認します」
 六人の助役がそれぞれの記録簿にボールペンを走らせている。この後、普段なら「制服から不用な物を外しなさい」(なぜだか、けっして組合バッチとは言わなかった)と言って、これも記録簿に「現認した」ことが記録されて朝の点呼はあらかた終わるのだが、この日は少し違っていた。後ろの方で様子を見ていた三木が、
「所長、ちょっと聞きたい事があるんだけど」
 と言い出すと、すかさず田川助役が、
「関係のない事は発言しないように」
 とさえぎった。打ち合せていたのだろう。しかし三木は発言をやめない。
「業務についての質問ですよ。きのうわれわれの所に電話したでしょう、人材活用センターに発令する」
「点呼を妨害しないように。だいいち三木君、今日は公休でしょう。休日、職場に入るには許可がいりますよ」
 所長が上ずった声で言った。誰かが、
「馬鹿言うなよ。自分の職場に来るのに許可のいるところがどこにある」
 と呆れたような声で言ったが、その声を遮るようにして、下$げっ$ちゃんが声を出した。
「それじゃ俺が聞くよ、俺は点呼を受けてんだから。きのう寮に電話かけてきて人材活用センターに発令しますって言ったよな海野さん」
「関係のない発言は…」
「関係大ありだろう。人材活用センターって何だよ、説明してくれよ」
「発令に疑問のある人は、後で所長室に来るように。海野君、先に進めて」
 所長がこう言って、一切説明しない腹なのが全員にわかった。
「さっき所長室で聞いても、何も答えないからここで聞いてるんだろ」
 後の方から、ふたたび三木が言った。
「何で、発令なのに電話で済ますんだよ。辞令は現場長が手渡すことになってるだろうが」
「女房が心配してんだ。説明しろよ」
 めいめいが喋りだした。
「静かにするように。業務妨害だぞ」
 樺島が大声を出した。
「何言ってんだ、わからないことを上司に質問してるんじゃないか。この職場に関係ないやつは黙ってろよ」
 西崎がやり返した。
「なにっ。〈やつ〉とは何だ〈やつ〉とは。暴言を吐いたな。所長、暴言を記録しなさい」
「暴言だと。何言ってるんだ、そっちこそ説明しろよ」
「所長、辞令について説明を求めることのどこが悪いんだ」
 私も大きな声を出したが、もう当局側に答えるつもりはなかった。
「これで点呼を終わります。なお、次の者は点呼が終わりしだい、一人ずつ所長室に来るように」
 海野助役は、昨晩電話を受けなかった者の名を一方的に読み上げていく。
「何言ってる。説明しろよ、説明」
「俺だって、電話で話しただけで辞令受けたわけじゃないぞ」
「人材活用センターって何だよ、就業規則にないだろうそんなとこ」
 西崎が飛び切りの大声を上げると、樺島が、
「よく反省しないと新会社に行けないぞ」
 と言ったものだから大混乱になった。
「何だそれは」
「威すのかよう」
「ふざけるんじゃないぞ」
 怒鳴り声が飛びかい、ガタンと大きな音がして振返ると、顔を真っ赤にした沖田が長テーブルをひっくり返して立ち上がっていた。まずい、と思って止めるまもなく、
「何でこんなに馬鹿にするんだ」
 と言いざま、長い髪を振り乱した沖田は、自分の座っていた折りたたみ椅子を、まさに振り上げようとしていた。回りの何人かがあわてて沖田の両手を押さえにかかる。
「暴力だ、暴力を現認しろ」
 樺島がわめき、全員立ち上がったわれわれは、いまや口々にわけの分からない言葉をわめきながら、助役たちに詰め寄った。
「点呼終了。終了したぞ」
 所長が声を張り上げた。
「何言ってる」
「説明をしろ、説明を」
 われわれはなおも助役たちに詰め寄っていき、ガタガタと音をならして引戸が開けられると、六人の助役たちはドドッっと逃げるように飛び出して行き、所長室に閉じこもってしまったのだった。このようにして、結局、新橋要員機動センターの三十七人の国労組合員は、全員「人材活用センター兼務」という肩書きを付けられてしまった。
 点呼の後、われわれは一人ずつ、胸に小さなテープレコーダーを忍ばせて所長室に行き、辞令を手渡された。「人材活用センターとは何ですか」という質問には「まだ業務内容は聞いていません」、「なぜ私が人材活用センターに選ばれたのか説明して下さい」という質問には「適材適所です」という回答が返ってきただけだった。

「青木君、やっぱり首になるの?」
 その日の夜、私のアパートで話を聞いた謡子は、私の顔をのぞきこむようにしながら言った。
「そうだな、あの時、俺の言ったことはいい加減だったかもしれないな」
 と私は言った。再会した日に謡子は、分割民営化されたら首になるのかと聞き、私はその時、「私みたいな活動家、首切る方に振り分けても、再就職先が見つからないから、新会社に飼い殺しにするしかないんじゃないですか。国鉄じゃ、徹底して当局につかないなら、徹底して組合についた方が安全なんです」と適当なことを言ったのだが、国労の活動家を根こそぎ人材活用センターに放り込んだ政府・国鉄当局のやり方は、私たちのそれまでの常識をはるかに越えていた。
「そうでしょう、私、甘いなあって思っていたのよ」
 そう言った後で、少しおいて、
「それにしても、人材活用センターって、よくそんな名前つけたわね」
 とあきれたように言った。
「ユーモアのセンスは並外れているよな」
 と私は言った。
「ああ、青木君も無職になるのか」
 彼に続いて、私もまた無職になってしまうのではないかという不安で、いっぱいのようだった。
「俺はあなたに食わせてもらうようなこと、絶対にしないから大丈夫だよ。何とかなるよ」
「……」
「『トマト』やっている全国一般の人たちみたいに、いざとなったら仕出し屋でもやるかって話してるんだ」
 当時、組合つぶしのために、働いていた製麺工場を閉鎖され、全員解雇された全国一般労組の組合員が、自分たちで「トマト」という食堂兼仕出し屋を始めていて、新橋要員機動センターに隔離された労働者を応援するために、弁当を届けてくれたりしていた。私は首になったら仲間たちと食うための仕事ができないかと、半ば本気で考え始めていた。
「青木君が弁当屋のおじさんか。私、やっぱりちょっと嫌だな」
 厨房でねじり鉢巻をして、弁当を詰めている私の姿でも思い浮べているのだろうか? 眉根を少し曇らせた。謡子にはやはり「普通の人々」を敬遠するところがあった。

     *

 人材活用センターに発令されたからといって、新橋要員機動センターの労働者の日常は、所長以下の助役が言ったように「当面、場所も仕事も変らない」ままだった。ラッシュ帯のホームでの尻押しや品川駅の「特別改札」、それに幾つかの駅での客の多い日の応援と、私たちは支給された安物のバッグに制服を詰め込んでうろうろしていた。人活$じんかつ$と称され、全国でおよそ千四百ヵ所に一万八千人が収容された人材活用センターは、昨日までの運転士や昨日までの保線区のベテランが、草むしりに駆り出されているといったところが大半で、駅での本来の仕事も少しは与えられているわれわれはましだと言うこともできたが、だいたいが、われわれの場合は一年以上も前から、人材活用センターを先取りしたような職場に隔離されてきたのだから、「場所も仕事も変らない」からと言って、別に喜ばしい話ではなかった。
 新たに七人の労働者が「人材活用センター」の辞令をもらってやってきた。駅ごとに組織された国労分会の役員だった活動家もいれば、同僚よりも少しだけ意地を張って組合バッチを外さなかったり、些細なことで現場の助役と言い争ったのがあだになった運の悪い若者もいたのは、元からいた者と変らなかった。反対に四人が転勤して行った。当局に国労を抜けることを約束した者たちだった。四人とも、ある日、朝の点呼で助役が「今日付で転勤することになりました」と言うまで、事前に掲示も張り出されず、本人からも誰にも告げられなかった。転勤と同時に、「一身上の都合で国労を脱退します」という脱退届が分会宛てに提出された。彼らは、発令された駅で本来の業務につき、いまや多数派となりつつあった、分割民営化賛成の「改革労協」の組合員となった途端に、「人材活用センター」という肩書きを外されて、新会社への優先権を得た。しかし、彼らはそのことによって心の平安を得られたのだろうか。すでに一年以上を要員機動センターで過ごしてきた、そこでの様々な経験を、心の中からきれいさっぱり消し去ってしまうことができたのだろうか。
 ある日、谷が、
「最近、松ちゃんおかしいぞ。時々所長室に出入りしてるんだぜ。さっきも所長とこそこそ話してた」
 と喋っているのを聞いたとき、私は、またいい加減なことを言っていると思ったのだが、それから数日後、点呼の最後に海野助役が言った。
「松尾君が今日転勤することになりました。所長が赴任に付き添うので、松尾君は支度が済みしだい、ただちに所長室に来るように」
 松尾はうつむいて黙っていた。助役たちが詰所を出ていくと、案外さばさばした様子で、
「悪いけどそういうことだから勘弁してくれ」
 と誰にともなくそれだけ言って、ロッカー室に入って行く。
「えー、本当かよ」
 という誰かの声が聞こえた。私はあわてて松尾の後について行ったのだが、いつの間にか整理されて、二つの紙袋だけになっているロッカーの中の荷物を、もう両手に持っている松尾に対して、とっさに言うべき言葉が見つからなかった。
「だいぶ考えたのか」
 当たり前のことしか聞けない私に、
「そりゃ、そうだよ」
 松尾は少しだけ目をしょぼつかせながら答えた。
「下まで送っていくよ」
「ああ、悪いな」
 と松尾は言い、両手に紙袋を持ってロッカー室を出た。所長室のドアを半分ほど開けて、
「下の入口で待ってますから」
 と一方的に言ってドアを閉めた。付き添いの所長を待たずに一人でずんずん階段を降りて行く、そのことの中に松尾の意地が示されているような気がした。ビニールタイルがところどころ剥がれた階段を、私たちはぐるぐると回りながら降りて行った。廃屋となり、辛うじて最上階だけをわれわれが使っている五階建てビルの、掃除する人もなくほこりのたまった階段を、松尾はもう昇ることはないだろう。しかし、階段を降りて行った先に幸福な明日があるのかどうか、それは何とも言えなかった。
 一階のガラス戸の前に立った松尾は、両手の紙袋を下に置くと、いつもの癖で、スポーツ刈りの頭をぐるりと撫でてから言った。
「親戚もやって来て家族会議をやったんだ。そうしたら、俺この前、親父に土地分けてもらって家建てたばかりだろう。絶対首になったらだめだってことになってな」
「家族思いだからな、松っちゃんは。女房にも言われたのか」
「まあな。でも女房の親に言われたのが一番こたえたな」
 ごついじゃがいものような感じのする松尾の風体を、すこし小さく、すこし可愛らしくしたような、亭主と良く似た女房の顔が浮かんだ。ある時、松尾は「こんな大変なところで頑張るには、家族ぐるみで付き合うしかない」と言い出して、レクリェーションの音頭を取ったことがあった。八王子にある遊園地に行ったその時、松尾は女房を連れてきたが、私は謡子を連れて行って皆に冷やかされた。
「俺の彼女、松っちゃん好きだったのにな。残念だな。でもまあ、そう決めたなら決めたで頑張るしかないよな」
「ああ、そのつもりだ。彼女によろしく言ってくれ」
 松尾が言い、私は、
「わかった。元気でな」
 と言った。ガラス戸の前に顔を上げて立ち、新しい職場への赴任に付添う所長を待っている松尾を見ながら、これからは無口な男になるだろうと思った。

 梅雨が明けて、カッと照りつける夏が来た頃には、永遠に岩石を山頂に運び続ける神話の中のシジフォスのように、ベテランの国鉄マンが炎天下、沿線の草むしりを強制されているといった、人材活用センターの記事が、少しずつ新聞に載るようになっていたが、われわれをめぐる圧倒的に不利な状況は変らなかった。主要なマスコミの論調は、国鉄のかかえる累積赤字の原因を、「親方日の丸の労働者」と「聞き分けの悪い国労」に押しつけるものばかりで、赤字の原因のほとんどは「我田引鉄」と呼ばれた政治路線の建設から生まれたもので、たびかさなる合理化の結果、経常の収支はすでに黒字になっているという国労本部の説明は、「分割民営化と十万人削減しかない」という報道の洪水に押し流された。われわれは、組合の主催する集会やデモに動員されたり、分会で作ったビラを駅前で撒いたり、また、妥協に転じて組織攻撃から身をかわす素振りを見せはじめた国労本部に対して、「人材活用センターに収容された組合員を見捨てるような妥協はするな、一人の首切りも認めるな」という手紙を、全員で書いて送ったり、そんなことをしているうちに、夏は過ぎていった。

     *

 新橋要員機動センターの労働者が、いよいよ現実のものとなりはじめた首切りに直面していた夏、謡子は東アジア反日武装戦線事件で、高等裁判所に出す書面を作るために苦しんでいた。
「今日は平沼さんに会いに行って、それから事務所の仕事が済んだら私のアパートに帰るけど、青木君、来ちゃ駄目よ。邪魔になるから」
 八月も半ば近くになったころ、追い詰められた謡子は、書面ができあがるまで自分のアパートに閉じこもると宣言し、東京拘置所に収監されている平沼さんに会いに行くといって、ある朝、私のアパートを出た。

 東京拘置所は東京の東の端、もう千葉県に近いあたりを流れる荒川のへりにあって、周辺の風景には、東京の中でもどこか田舎臭さが残っている。せいぜい三階までの軽量鉄骨のビルがあるくらいで、周囲を威圧する高い建物はなく、いくらか上流に行くと、どうかして家々の間に畑があったりする。およそ二百メートルほどの荒川の川幅のうち、河川敷と、附近の家屋よりも高いところにある堤防の斜面には緑も見えて、のどかな感じのする風景が続いている。
 出入りする者の間では「東拘」$とうこう$と呼ばれている東京拘置所は、東武伊勢崎線の電車で荒川を、都心から千葉県よりに渡ったところにある小菅駅の、駅前と言ってもいい場所にあって、電車が鉄橋にさしかかると対岸の堤防の向こうに、頭でっかちの円柱形の給水塔と、先の尖った四角柱の監視搭の二つが目に飛び込んできた。
 成田空港に反対し管制塔を破壊して開港を阻んだ闘いでは、私の周囲の多くの者が逮捕されて東拘に収容されたが、別れた妻もその一人だった。それでおよそ二年間、私は面会のために東拘に通ったことがあったが、謡子も事件を担当することになった平沼洋一さんに会うために、何度も東拘に通うことになった。収監されている者に面会するには、小菅駅から荒川沿いの道に出て、やけに広い舗装道路が乗り入れている正門前は素通りし、そこから数百メートルほども、ぐるっと回り込んだ所にある面会者専用の入口に行かねばならない。そこでは高さが五メートルほどもある分厚いコンクリート製の塀と鋼鉄製の扉が、世間と拘置所の中とを隔てているのだが、塀の外側にあるモルタルづくりの面会者待合所も、道路沿いに幾つかある差し入れのための食品や雑貨を扱う店も、すでに一帯が日常世界のものではない異質な空気に支配されていた。巨大な分厚い灰色の塀こそが東拘の主人公であり、あまりにあからさまな、その剥き出しの意思が塀の内外にいる人々を支配して、人々はなぜか小声でひそひそと話すようになるのだった。
 面会者はまず、コンクリートに穿たれた小さな窓に、収監者の氏名と面会者の氏名を書いた小さな紙片を提出する。新左翼の収監者には完全に黙秘している者が多かったので、氏名欄には警察が付けた逮捕番号が書かれる事も多かった。それは逮捕されて最初に留置された警察名と四桁の数字とでできていた。彼らは、麻布一二八五号とか成田二一一五号といった逮捕番号で、裁判が始まり、裁判官に身分を明らかにするまでの間を過ごしたのだった。紙片と交換に番号札が渡され、一旦待合所へ引き返して呼出しを待つ。スピーカーが何人分かの番号をまとめて読み上げるごとに、人々は替えの衣類や週刊誌、文庫本などの差し入れ品を抱えて塀の中に入ることを許された。塀の中にもう一箇所待合所があった。そこでもう一度自分の番号が呼ばれ、入るべき面会室の番号が告げられてはじめて、アクリル板でこちらと向こうが仕切られた三畳たらずの部屋の中での、たかだか十分間ほどの面会が叶うという仕組みになっていた。
 謡子が自分を弁護人として選任した者と会う場合はそこまでの不自由はなかったが、しかし、拘置所側は公安事件の被告人と弁護士との接見を様々な理由を付けて妨害したので、面会するまで何時間も待たねばならない時も多かった。コンクリートの塊である監獄に冷暖房の設備はなく、真冬の監獄のコンクリートからじかに伝わる冷気で謡子は体を壊したが、平沼さんのところに通った季節は真冬に比べればましだったろう。
 謡子は東拘に何度も通っては、建設会社の飯場を爆破した十一年前の事件を、平沼さんの記憶の中で再現する作業を続けていた。進出先のマレーシアで建設していたダムが、共産主義勢力のゲリラ闘争の標的となって、建設会社が「投資は侵略ではない。撤退は考えない」と弁明したとき、平沼さんと仲間たちはその飯場を標的と定めたのだったが、彼らが「従業員を殺傷する意図を持って、工事事務所を爆破した」という第一審の認定は誤りであること、彼らは建設会社を「帝国主義的侵略企業」として糾弾しはしたが、従業員を傷つけようなどとは考えていなかったことを、証明するための手がかりを得ようとしたのだった。
 東アジア反日武装戦線の実態は、総勢がようやく二桁になる極少数のゲリラグループの連合で、その思想は、「日本の繁栄はアジア諸国の民衆からの、超過搾取によってもたらされている」という、一つの言葉に集約することができたと思う。全共闘の時代には、少なくない数の人々が「闘わないことは悪である」という思いと「闘えない自分」との葛藤に苦しんだものだが、平沼さんたちは「闘わないことは悪である」という考えを、もっとも突き詰めて理論化した人々だった。彼らは、生存のために武器を持って闘っているアジアの人々と、人間としての対等な関係をつくるためには、自分たちもまた命を的に武器を持って闘う以外にないと決意して、心の中の葛藤や逡巡を、その理論でもって一刀両断に切り捨ててゲリラ闘争を展開し、あえなく逮捕されたのだった。私は爆弾によって社会が変革されるとは思えず、彼らの思想が、日本の権力者と民衆を同一視しているのは間違いだと思っていた。そして、自分たちの闘いの招いた、取り返しのつかないとさえ言える結果に否応なく直面して、獄中にある彼らが、自分たちの思想を根本的に再検討していることを知って安堵した。しかし謡子は、その辺のところにはいっこう頓着する気配を見せなかった。どこまでも厳格なキリスト者のような態度で、自分たちの闘いと錯誤の双方を、共に引き受けようとしているかに見える、リーダー格の小河原さんを謡子は尊敬していたが、その一方では、実のところ、逮捕されたゲリラ兵士とは思えない、軽いところのある平沼さんとは大変に気があった。せっせと東拘に通っては、平沼さんと面会してくるのだが、訴訟のための記憶喚起が目的の接見は、だんだんただのお喋りになっていくようだった。
「平沼さんね、支援してくれる女の子を口説いたけど断られたって言うの。かわいそうねって言ったら、それじゃあ仁科さん付き合ってくれますかだって」
「あなた、小菅方面ではよくもてるからな」
 と私は答えたが、実際、謡子は獄中の被告たちからよくもてたのだ。

 仕事の邪魔になるから来てはだめだと言って、アパートに閉じこもったはずの謡子は、二日後にはもう、長い長い電話をかけてよこした。
 夕方仕事から帰ってくるなり電話がなり、受話器を取ると、
「帰ってたの。帰ったら電話くらいくれてもいいでしょう」
 といきなり言う。
「飯食ったら、様子を聞こうと思ってたんだけど」
「もー」
 自分への電話より夕飯を優先したことが、明らかに不満そうだった。謡子は、私が中学校近くのお好み焼屋や蕎麦屋の事は覚えていたくせに、自分の事は忘れてしまっていた事がいたく不満で、食い物と張り合っている気配があった。私の方は、電話をかければ小一時間は放して貰えないから、まず食うものを食ってからでないと、電話をするのが怖いのだけれど、謡子は許さなかった。要件さえ伝えれば電話は切るものだと思っていた私は、謡子と再会して初めて電話というものがお喋りに使えるものだと知った。電話をかけてくると、謡子はいつも一時間近く受話器を置こうとしなかった。今となっては、何を話していたのかほとんど覚えていないのは、当時は少し持て余し気味で、「もう、そろそろ切ろうかな」などと思いながら、上の空で話を聞いていたからだろう。
「今日も、平沼さんに会いに行ってきた。補充書が夏じゅうに書けるかどうかわからないって言ったらね、あの人、もしも書けなかったらおっぱい見せてくれますかって言うのよ」
「それじゃあ平沼さん、書けない方が喜ぶんじゃないの」
「そうかもしれないね」
 電話の向こうで笑っていた。
「絶対そうだよ」
「ねえ、じっとしてるんだったら来てもいいよ」
 結局、私にアパートに来るように言ったのだ。

 それから二日後の休日、私は昼下がりに謡子のアパートへ行った。新高円寺の駅からアパートまでの路地は、真夏の太陽にあぶられたアスファルトからの熱で歪んで見えて、ポロシャツの下から汗が吹き出して来るのを感じながら、もう通いなれた道順を歩いた。
 熱気の籠もったアパートの階段を三階まで昇り、ベルを押すと少し間を置いてドアが開いた。謡子はお気に入りのピンク色のTシャツ姿で私を迎え入れたが、髪の毛はぼさぼさで、起きぬけのような顔をしていた。いつものように私の背に両手をまわそうとするので、私は、
「汗だらけだよ」
 と言ってその手を押し戻そうとしたが、振り払うことはせずに少しの間だけ肩を抱いた。肩ごしに、白い合板の机の上に幾冊かのファイル、分厚い本、そして、書面用の原稿用紙が乱雑に置かれているのが見えた。
「はい、差し入れ」
 私は左手で提げたままでいた、好物のケーキとグレープフルーツの包みをちゃぶ台に置いた。謡子は何かをプレゼントされるといつも大層に喜んだ。
「ありがとう」
 と尻上がりな調子の大きな声で言い、
「チーズケーキも来たし、青木君も来たし、ちょっと休憩してお茶にしよう」
 そう言うと、レンジにポットをのせて火を付けた。
「どう、進んでる」
「全然」
「全然?」
「うーん、少しずつはね」
「亀の歩み?」
「亀以下ね」
「蟻?」
 謡子は、ははっと笑い、
「そんなところよ。私仕事が遅いから」
 と言った。
「まだ夏は終わらないよ。だいぶあるじゃない」
「夏じゅうアパートに閉じこもってるなんて悲惨だわ。食事は『信濃路』で済ませて、書いて、ケーキ食べて、また書いて。ぶくぶくになっちゃうわ、私」
 白い頬を膨らせた。もともと色白でつるんとした謡子の肌は、夏の日にあたる機会を逸して白いままで、エアコンが快適に効いてはいるが、北向きの日のあたらない部屋に閉じこもり、食事はサラリーマン相手の定食屋で済ませて、なかなか進まない書面の原稿と向き合っているのは、体に良いとは思えなかった。
「書面ができたらプールに行こうよ。海はもう駄目だけど、プールならまだまだ大丈夫だよ」
 と誘う私に、
「そうね、それじゃあ青木君と泳ぎにいくのを楽しみに頑張るか」
 そう言った後で、手に持っていたコーヒーカップをちゃぶ台に置いて、
「でも、水着は彼のところだわ」
 と静かな口調で言った。
 ケーキを食べコーヒーを飲み終えると、幾らもしないで謡子は机に向った。カリカリ、カリカリと鉛筆で書面を書いている、丸く猫背ぎみになった謡子の背中を意識しながら、私はじゅうたんの上に寝転んで持ってきた文庫本を開いた。十分ほどして、謡子は首だけ回して私を見た。うふっと、さも幸せそうな笑顔を見せると、また机に向き直った。しばらくすると、また、同じように振り向いて、同じように笑顔を見せた。自分が仕事をしていて、その背後に私がいるという構図が、さも心に描き夢見てきた風景であるかのような、そのような満足感が笑顔に表われていた。
 私はその笑顔を見ながら、いつか謡子の言った、「私の理想はね、ストーブの上でシチューがことこと煮えていて、それを挟んだ二つの机で二人がめいめい勉強している、そんな家庭なの」という、近ごろは女子高生でも思いつかないようなお伽話を思い出していた。その時はそのすぐ後に、「京大に、私の敏夫ちゃん事件っていうのがあってね、全共闘の学生が父の同僚の家に押しかけて、教授を出せって騒いだら奥さんが出てきて、私の敏夫ちゃんをいじめないでって叫んだのよ。私、その人も奥さんも知ってるけど、あんな夫婦もいいなあ」と言ったので、私は大笑いしたのだった。
 もう一度謡子は振り返ると、
「できたところ読む?」
 と聞いた。私はうなずいて体を起こし、何十枚かの紙の束を受け取った。

 …検察官は補充答弁書において「…宿直室は右事務所建物内の一隅にあって、同室の南側及び西側にそれぞれ窓があり」とした上、「外部からも容易に夜間、人の現在することが確認できる状況にあったこと」と結論づけている。しかし、右の主張は、宿直室の構造について故意に厳密な考察を捨象した上…
 ………
 以上のとおり、本件建物の外側は電燈配置の客観的状況からも、主観的認識からも相当明るかった……、外からみて、室内の明りを判別することはできないのである…

 縦に罫線が引かれただけの、欄外に弁護士事務所の名前の入った原稿用紙に、一行おきに幾分右上がりの、丸い鉛筆書きの文字が並んでいて、挿入や削除の繰り返された原稿を、私はしばらくの間、目で追っていた。仕事の上の色々な話は始終聞かされていたけれど、謡子の作った裁判の資料を見たのはこの時ただ一度だけで、もちろん私は謡子が法廷に立った姿を見たことはない。当時、私の回りには法律家を必要とする労働組合やグループが幾つかあったけれど、私は法律上の仕事を謡子に頼もうとは決して思わなかった。弁護士の謡子と恋愛しているのではない、ただ謡子と恋愛しているのだという姿勢を、私は保ちたかったから。
 二時間ほども謡子は机に向っていたろうか。椅子の上で何度目かの背伸びをして、アーという声を出したあとで、振り返ると、
「散歩に行こうか」
 と言った。予定の箇所までできたのかと聞く私に、少し進んだから今日はもういいのだと言った。私たちは立ち上がり、そして数分後には、まだ熱気のこもる夕暮れの街に出かけるために、アパートの階段を並んで降りていた。

 こんなふうにしているうちに、日は容赦なく過ぎてゆき、書面の原稿は遅々として進まず、ついにもう待ったなしというところまできて、謡子は原稿をワープロで打ってくれることになっている、あんずさんという素敵な名前の女の人の家に、泊り込むはめになってしまった。謡子が原稿を書くと、すぐ横にいるあんずさんがワープロを叩く。それをその場で打ち出しては赤を入れて訂正していくというしんどい作業をまる二昼夜続けて、書面はぎりぎりのところで、八月の末にできあがった。
「うわー、終った。終ったわ」
 書き上げて私のアパートに来て、背伸びのポーズをする謡子の顔はさすがに晴ればれしていた。
「あんずさんのアパートはずいぶん広くてね。童話の本がいっぱい置いてあるの。あんなところに住んで、法律書なんか読まないで童話ばかり読んで、ジャズのレコードでも聞いて暮したいな」
 と言った。
「平沼さんに、できたって報告に行った?」
「支援の人が話しに行ってると思うけど」
「おっぱい見られなくて、がっかりしたかもしれないね」
 と言うと、謡子はあははと笑った。
「あんずさんに、意外とカチッとした文章で、親父さんの柔らかい文体と全然違うね、無理して固く書いているのって言われたわ」
「何て答えたの」
 と言うと、
「別に」
 と困ったような顔をした。
 彼と居た家を出たことは依然として両親に話しておらず、彼からの電話もアパートにかかってこなくなり、彼のところに行くことももうなくなっていたが、しかし謡子は彼との関係に決着をつけることができないまま、夏が過ぎていった。
「信頼している叔父がいる。叔父にだけは話しておこうかなと思っている」
 そう言っていた叔父さんにも、ついに謡子は話さないままだった。叔父のことは信頼している。三度離婚して四度結婚した人だけど、いい加減な気持ちでそうなったわけではなく、いつも真剣な恋愛をしてそうなった人だと言い、だから、彼との結婚について、ずっといがみ合ってきた両親にはともかく、叔父には別れたことを打ち明けられそうだと言っていたのだが。もっとも、謡子の方は隠しているつもりでも、両親は異変を感じていたのだ。彼といるはずの家に電話をしてもいたためしがなく、いつもそれから幾らかの時間をおいて、折り返しの電話があるのだから気がつかないわけがない。両親もまた弟を東京にやり、様子を見てこようかと話していたことを、私が知ったのはずっと後のことだ。
 九月二十日、予定より半月以上遅れて、「爆弾弁護士」こと川尻弁護士と仁科謡子が手分けして、ひと夏かけて書き上げた、東アジア反日武装戦線事件平沼公判の控訴趣意書再々補充書は東京高等裁判所に提出された。

     秋

 天気予報は低気圧が近づいていると言っていたが、周囲をかこむビルのつくる直線で区切られた空は青く、幾筋かの白い雲が浮かんでいるところに、高く掲げられた数十本の赤旗が割り込むように立っているのが、ビルを抜けてくる風にたなびいていた。
「うわ、すごい。私、こんなに赤旗があるのを見ると興奮するわ。やっぱり学生とは違うねえ、これだけの人が集まるんだから」
 事務所を抜けてやって来た謡子は顔を紅潮させ、騒然とした周囲の様子をグルッと見まわしながら大きな声で言った。東京駅八重洲口前の広場は労働者によって占拠されていた。さっきまでビルの壁に響いていたハンドマイクの音は止んでいたが、ビル風にあおられた赤旗がパタパタと鳴って、その前方には何本かの大きな横断幕が通行人の方に向けて掲げられていた。菜っぱ服姿の国労青年部員と、支援に来た労働組合員の数はあわせて五百人にもなるだろうか。中央の広くなったところに何十人かが並んで座り込んでいた。新橋要員機動センターからも、皆から、とにかく目立つ所にはいつもいると思われている小田島が、今回もちゃっかりと代表に選ばれ、胸に「ハンスト決行中」というゼッケンをつけて座っていたが、謡子を見つけると、花壇の縁に腰掛けている私たちの方にするするっと近づいてきて、
「青木さんたち、駄目だよ、こんなとこでデートしちゃ」
 と言うとニヤッと笑った。小田島は、顔を見ると決まっていつもからかいに来るので、謡子はいやがっていたのだが、この時も、
「応援に来たのよ」
 と口を尖らせた。
 ハンドマイクが、通行人に訴えはじめた。
「御通行中の皆さんーー、私たちは国鉄労働組合の組合員でーー、分割民営化はー、大企業による国有財産の横領でーー、国鉄の跡地は大企業にたたき売られーー、私たちはーー、十万人の首切りに反対しーー、ハンストをーー」
 とたんに、それまで黙っていた当局側のハンドマイクも喋り始めた。
「この場所は国鉄の用地です。この場所での集会は許可していません。ただちに退去しなさい」
「何いってんだよお」
「当局帰れよー」
「うるせえぞー」
 ハンドマイクの音と音が交差して、こちら側から皆が一斉に野次りはじめると、あたりはさらに騒然としてきた。
「おい、お前ら尻向けてないでこっち見てみろよ。こっち向けねえのかよ、恥かしくってよう」
 誰かが怒鳴ったが、紺色の制服に紺色の帽子をかぶり、白い腕章をした百人ほどの鉄道管理局員たちは、われわれが占拠している広場の方に尻を向けてぴくりとも動かなかった。彼らは、ずらっと横一列に隙間なく並んで、通行人とわれわれの間に人間の壁を作っているのだった。汚い物を人の目に触れさせたくないとでもいうような、頑$かたくな$な意志が、何を言われても振り向かない、紺色の肩と尻の列から伝わってきた。その壁の向こう側を、何事が起こったのかと、ちらちらとこちらを見ながら人々が通りすぎて行く。
 立花が、人間の壁の中に丸岡がいるのを見つけて、
「おお、金と権力の丸岡がいるぞ」
 と大声を出した。応援に行かされた駅で、青年部長の佐伯を五人がかりで一時間も監禁して、
「お前なんか首を切って争議団にしてやる。俺には金も権力もあるんだ」
 と脅して泣かせた、人事課員の丸岡だ。
「おお、丸岡じゃないかよー。金と権力の丸岡ぁー、そんなとこで何やってんだよ、こっち向けよー」
 誰かが盛んにちょっかいを出すが、もちろん丸岡は振り向かず、体を固くしてじっと斜め下を向いたままだ。
「おまえら仕事ないのかよー。局に帰って仕事しろよー、しごとー」
 野次の声はだんだん大きくなっていき、広場の空気を震わせて、私たち二人の回りは少しずつ、異質な空間で埋められていく気配がした。
 となりに座っていた謡子が、
「あ、来たわ。佐野さんだ」
 と言ってすくっと立ち上がり、改札口の方を見て手を振った。管理局員たちのつくる紺色の壁を抜けて、南宏子さんが笑いながら私たちの方に歩いてきた。とっさには事情の分らない私が驚いているのを見て、謡子は、
「驚いたでしょう、私が呼んだのよ。仕事の打ち合せもあるから、出てきたらって」
 そう言って面白そうに笑っていた。やってきた南さんは、謡子が、
「この場所、すぐ分った」
 と聞くと、静かな笑顔を絶やさないまま、
「分るわよ、これだけの人が騒いでたら」
 と言ってから、立ち上がった私の方を見て、
「こんにちは。久しぶりやね」
 と会釈した。
「いつの集会以来かな。この人が、来るって言ってなかったからびっくりしました」
 と私も会釈を返しながら言った。
 南(旧姓佐野)宏子さんは、私と謡子との、唯一の共通の友人だった。というより、彼女は、中学校の卒業式で事件を起こしたとき、最後まで式に出なかった四人の仲間のうちの一人だった。彼女とも中学校を卒業してすぐ疎遠になったが、私は彼女のことは覚えていて、東京に来て十年近くたった頃、成田空港に反対する都心の集会で、もんぺ姿の彼女を偶然見かけたときは、えらく驚いたものだ。びっくりしている私に向って、その時、南さんは、
「私、反対同盟の人のところにお嫁に行ったのよ」
 と言ったのだった。
 成田空港に反対して農民を支援した新左翼のグループは、「援農」と名付けられた農作業の手伝いに各農家を訪れた。一時期どこかのグループにいたことのある南さんは、どんな経過があったのか、援農先で空港反対同盟の青年行動隊員と恋愛して結婚したのだという。それから成田現地の集会や東京での集会で、ときどきもんぺを履いた南さんを見つけて話をするようになった。いつか、彼女が、
「これまで、色々あったけど面白かったね」
 と言って、私は、
「うん」
 と生返事をかえしたが、何となく素直に同意できなくて、困ったことがあった。
 謡子は、佐野さん、佐野さんと、旧姓のままで呼んで、中学校から帰る方向が一緒だった彼女とは親友で、学校のことや家族のことや、様々なことを帰り道に話し込んだものだ、卒業式の事件のあともつきあいが続いていたのだと話し、「いま青木君と恋愛してると言ったら喜んでくれた」と言ったことがあった。反対同盟の人々が蒙っている、機動隊による日常的な検問や家宅侵入を訴えた国家賠償訴訟を引き受けてから、謡子は、現地の調査に行っては南さんの家に寄るようになっていた。
「この前、仁科さんが来たとき、青木君のこといろいろ聞いたけど、廃墟の中にとじ込められてるんだって」
 と南さんが言い、私は、
「まあね。仕事しないで金もらってるとも言えるけど」
 と笑って答えた。南さんは手に持ってきたものを差し出すと、
「今日はハンストだって聞いたから、差し入れ持ってきたの」
 と言った。大きな花束だった。私はお礼を言って受け取って、一瞬どうしようか迷ったけれど、現場を指揮している責任者のところに行って、
「三里塚の空港反対同盟の人が応援に来てくれて、差し入れにこれをもらったんだけど」
 というと、少し引きつったような顔をして受け取ったが、しばらくしてハンドマイクから、
「成田の空港反対同盟から、激励の花束を頂きました」
 という声が流れてきて、国労組合員からも応援の労組員からも、ちょっとどよめくような声とともに拍手が沸いた。私は、内心、紹介されてよかった、南さんに嫌な思いをさせずに済んだと思ってほっとした。当時、国労内の主流党派は、成田と聞くとすぐ「暴力」と結びつけて排除する傾向が強かったけれど、闘いの現場では排除の論理は露骨には現れなかったのだ。
 しばらくの間、私たち三人は騒然とした空気が周囲を覆う中で、花壇の縁に腰掛けて話をした。
「佐野さんはね、昔の青木君は人に説教するようなところがあって嫌だったけど、東京で会った時はそれがなくなってて良かったって。ねえ、この前そう言ってたよね」
 と謡子が言って、私は自分の顔が赤らむのを感じた。謡子によれば「エリートになることを拒否する」と言ったという、あの頃の私はどれほど高慢だったのだろう。
「そんな話聞くと、穴があったら入りたくなるな」
 と私が言うと、南さんも、
「面と向ってそんなこと言ったらあかんよ」
 と照れたように言った。
「まあ、ええやないの」
 と謡子が言ったので、私は、
「あなた、京都弁に戻ってるよ」
 と言った。謡子は、
「ああ、ほんまや」
 とまた言った。しばらく黙っていたハンドマイクが、
「国労組合員の皆さん! 支援の皆さーん! 立ち上がってくださーい」
 と大きな音を響かせた。
「シュプレヒコール」
 というハンドマイクの呼びかけに、どやどやと立ち上がった人々の群れから
「おー」
 と応える声が上がった。
「国鉄の分割民営化を阻止するぞー」
「十万人の首切り反対ー」
「人権無視のー、人材活用センターを廃止せよー」
 ハンドマイクの声と、時間の経過とともに、ますます数を増して膨れ上がった労働者の肉声とのリフレインが、ビルの壁に跳ね返って響きわたった。もう座って話していられるような状況ではなくなって、謡子は、
「佐野さん、そろそろ行こうか」
 と言い、南さんもうなずいて立ち上がった。私は南さんに、
「今日はどうもありがとう」
 と礼を言って、謡子には、
「俺、今日はここに泊り込むから」
 と帰れないことを告げた。二人はそれぞれ私への激励の言葉を口にすると、改札口の方に、管理局員のバリアーをかき分けて去っていった。
 私は二人の後ろ姿を見送りながら、訴訟の打ち合せがあったのでついでに来てもらったのだと言っていたが、本当のところ、謡子はただ私と一緒に闘いの現場に居るところを見てほしくて、それで南さんを成田から呼んだのではないか、何となくそんなことを思って苦笑していた。
 二人が帰った後も、労働者の数はますます増えていくようで、ハンドマイクが断続的に繰り返すスローガンに呼応する声はだんだん大きく、統制のない騒然としたものになっていった。当局側のハンドマイクも、その度に退去を要求する声を流してはあたりの空気を震わせたが、警官を導入して強制排除するかもしれないという悪い予想は、どうやらはずれたらしく、このぶんでは明日朝までこの場を占拠し続けられそうだと、そんな会話があちこちでされた。
 夕方のラッシュアワーがすぎ、人の流れがまばらになり始めたころ雨が降ってきた。ぽつぽつとした雨足はだんだん早くなり、夜がふけると本降りになった。その頃には当局の作った尻の壁もなくなり、管理局員たちは駅ビルの中から、こちらの様子をうかがっていた。すっかり暗くなった広場の所どころに立つ背の高い水銀灯の回りが、ポーッと白く丸く照されて虹色の光彩をつくり、降り続く雨つぶを照して白いベールのように見せていた。
 もうハンドマイクも喋らず、赤旗も「ハンスト決行中」と大署した横断幕も、濡れそぼって重く垂れ下がっていた。とっくに濡れてしまった靴とズボンの裾から、冷たい雨の感触が容赦なく体に伝わってきた。一晩をここで過すことになる国労組合員と支援の労働組合員は、ある者は傘をさし、ある者はビニールのかっぱを着込んで雨に打たれ、また、ある者は、ビルの軒下に身を寄せていた。
 時計が午前一時近くになり、終電車の時刻が近づくころになると、もう誰も喋らない。私はビニールのかっぱを被り、下を向いて雨に打たれていたのだが、少し離れた場所がざわついたかと思うと、
「なんだあれは」
「何やってんだ」
 などという声がこちらの方まで広がってきて、私は声のする方角を見た。もう半分シャッターが閉じている駅ビルの入口に、黒い人影がいくつかちらついて何かをしている。目を凝らしていると、前の方から、
「ばけつで水撒いてやがる」
「ちくしょう、なんて奴らだ」
 という声が聞こえてきた。そうか、ばけつで水を撒いているのか。
 終電車が行くと閉じられる駅のシャッターの外側には、屋根のついた幾分広い場所があって、そこからさらに地下街に降りて行く階段の上にも屋根がある。奴らは、われわれがその下で雨宿りができないように、ばけつに水を汲んできては、あたり一面にぶちまけているのだった。黒ぐろとして顔も姿もわからない幾つもの影が、ザァー、ザァーっと水を撒くその様子を、私は怒りとも哀しみともつかない、胸の中に空洞が広がっていくような、そんな気持ちで見つめていた。
 雨は夜半になっても降り止まず、ビルの陰に座り込んでいる私は、ときどきうつらうつらしながら眠ることができなかった。ふと顔を上げると、向かい側のビルの陰で、堀之内が長い手足を無理やり折り曲げるようにして、目をつぶっているのが見えた。水銀灯の光を受けて雨つぶは鈍く光り、堀之内の長い足は何十センチかのビルのひさしには入り切らず雨に打たれていた。みじろぎもしないが眠っているのだろうか。その様子を見ながら、私は、この闘いには絶対勝たねばならないという思いが、心の底からふつふつと沸いてくるのを感じていた。

 私たちが雨に打たれて街頭で一夜を明した日から四日後、伊豆の修善寺温泉で行われた国労の臨時全国大会は、執行部の提案した「労使共同宣言」の締結という方針を否決して執行部は総辞職し、あくまでも分割民営化に反対していく新しい執行部がつくられた。労使共同宣言とは、国鉄の分割民営化と余剰人員の整理を、労使がともに承認するという内容で、それは、人材活用センターに収容されている現場活動家の解雇を、労働組合が認めることを意味していた。「一人の首切りも許さない」という原則論を掲げて、私たちは支援の労働組合員とともに会場に押しかけ、騒然とした雰囲気の中、大会は圧倒的多数で本部方針を否決したのだった。幹部は現場活動家の首切りを承認する代償として、組合への組織攻撃を中止させようとしたが、大会代議員の多くが人材活用センターに収容されているという事態の中では、本部の方針が承認されるはずはなかったのだ。私たちが、国鉄当局に加えて労働組合からも切り捨てられるという最悪の事態は避けられた。しかし、状況はますます厳しくなりつつあった。国労が主要な活動家を人材活用センターに奪われたあとの職場では、露骨な組合切り崩しはますます激しくなり、秋になると、月に一万人もの組合員が国労を脱退し、急遽つくられた御用組合にくら替えするようになっていた。半年前には二十万人いた国労組合員はあっという間に減少し、いまや十万人を割り込もうとしていた。

     *

 珍しく、横浜駅の改札口での泊り勤務を命ぜられた次の日の朝、一日中改札口で切符にパンチを入れて深夜二時に寝て、六時に起きて交代の九時まで働いた夜勤明けの頭は、いつものことながら、熱を帯びたようにボーッとして、重くざらざらした砂を詰め込んだような感じがした。帰ってきたアパートで、押入から蒲団を引きずり出して横になり、毛足の長い毛布の柔らかい感覚にほぐされると、ようやく手足から緊張が解けてゆき、カーテンの隙間から入ってくる秋の日差しもだんだん気にならなくなっていくと、頭の中の微熱とかすかな痛みも、重くざらざらした感覚も少しずつ遠のいて、いつしか眠りに落ちていった。
 それから二時間近く眠ったのだろうか。毛布の隙間から風が入りこんできて、はだけたパジャマの胸にひやっとした感覚がよみがえると、眠りの底から意識が徐々に戻り始めた。夜勤明けの眠りから醒めるときの感覚は不快なもので、意識の回復とともに、寝る前の少し熱を帯びた偏頭痛もまた徐々に戻ってくる。横向きになって寝ている私の顔の向いている方へと、ピンク色のパジャマ姿で滑り込んできた謡子は、体を私にあずけるようにしながら、
「起きた」
 と耳元でささやいた。私は頭の中の不快感に顔をしかめながら、
「うーん」
 と小さく唸る。謡子は私の足に足を絡めながら私の手を取ってパジャマの間に滑り込ませると乳房の上に押し当てた。乳房の弾力が伝わり乳首が掌の中心にあたる。目を閉じたまま、私が少し力を込めて乳房を揉むようにすると、謡子は、
「うっ」
 と小さな声を上げた。掌に伝わる乳房の感覚が私を覚醒させて不快感を押しやっていくと、私は体を少し起こして謡子の背に手を回して抱きしめる。右手を持ち上げて袖から抜いて上を向かせると、謡子は体を反らせるようにして、私がパジャマを脱がせるのを手伝った。カーテン越しの秋の日の光が全裸になった謡子の、毛布で隠されていない丸い肩から乳房のあたりを照していた。謡子の肌は柔らかく白く、いつか私が強く吸ってつけた痕が、ずっと残ってしまうほどだった。私は裸になった胸を謡子の胸に重ねる。謡子の乳房と乳首が私の胸をこすり、おおぶりな乳房の弾力が私の胸を押す。舌と舌がからみあい二人の息はあらくなる。私が体をずらして手を下半身に這わせると、謡子はまた、
「うっ」
 と声を上げた。私たちは体を重ねた。謡子はいつも足を揃えたままだった。幾度か足を開かそうとしたが強引にされるようで嫌だと言った。体が一つになる時いつも目を大きく開き、一瞬息を飲みこむような顔をした。幾らかの時間が過ぎ、私は徐々に大きく動き始める。謡子はクライマックスにむかうとき、いつも大きな声を上げた。
 私は謡子から体を離し毛布を引き上げて謡子の肩を覆った。謡子は私の右手を枕にしてこちらを向くと、フゥと一つ息を吐いた。
「明番$あけばん$だからアパートで寝てると思って。帰ってきたのわからなかった?」
「あなたのおっぱい触るまでわからなかった」
「うそー」
「うそです」
 謡子はけらけらと笑う。土曜日で仕事を早く切り上げたのだと言う。カーテンを開けると、すりガラス越しの秋の日の光はまぶしいくらいで、私たちのくるまっている蒲団を充分に暖めてくれた。
「京大のころの友達が結婚した話、してたでしょう」
「遊びに行ったらいつも丹前着て、炬燵で勉強してたっていう人だろう」
「子供ができたんだって。十二月に生まれるのよ。あの人だけはずっと変らないでいるような気がしてたのに。なにか裏切られたような感じがするわ」
「友達だけいつまでもガラパゴスに置いてきぼりじゃ、かわいそうだよ」
 と私は言った。いつか謡子が、京大には遅くまで学生運動が健在で、京大ガラパゴスと呼ばれていたのだと、言ったことがあったのだ。謡子は、
「そりゃあそうだけど。ねえ、私も子供産めるかな」
 と言って私を見つめた。
「そりゃ産めるさ」
「でも私、痛がりだからね、きっとギャーギャー騒ぐだろうな。お産のときは横に付いていてね」
「うん、わかった」
 と私は言った。
 しかし、謡子はまだ彼のところに決着をつけに行けないままでいた。週末がくるたびに「今週こそは」と、彼のいる家に行こうとするのだが、結局行くことができずに私のアパートに来てしまう。私は立てた人差し指を回しては「グルグル、グルグル、前に進まないねえ」と言い、謡子はいつも曖昧な笑顔を見せてうなずいた。私は、謡子が彼のところに行けば、おそらく「もう、私はあなたのところに帰りません」と言ってくれるであろうと思っていたが、不安がないと言えば嘘だった。しかし私は彼と何を話すのかは、謡子の問題だという態度を最後までとり続けた。それは、私のところに来ることをあくまでも「謡子の選択」にしたい、という気持ちがどこかにあったからで、やはり、再会したときに感じた「しめた」という気持ちに対する、うしろめたさがそうさせたのだった。彼と決着をつけなければならないという事が、謡子の心をどれだけ圧迫していたのか、今となってはわからない。

 その日、夕方というにはまだ間のある時刻、蒲団を抜け出した私たちはいつものように、東急線の池上あたりにぶらぶらと散歩に出かけた。いつもよく行く本門寺を越えて、何とはなしにその日はもう少しむこうまで足をのばした。大田区の馬込、池上あたりは、気をつけないとただののっぺらぼうな住宅地なのだが、実は小さな起伏のつながった丘陵地帯になっている。池上駅の方から本門寺のある小高い丘を登って裏手へ降りて行くと、高い塀に囲まれた一角があって、ぐるっと回ると「池上梅園」と書いた入口があった。梅の季節ならばたくさんの人が出ているのだろうか、私が名も知らなかった梅園の、人気のない入口にはそれでも係の人がいて、私たちは幾らかの入園料を払うと中に入った。
 元は誰か裕福な人の庭だったのだろう。庭園の半ばを占める小さな丘の斜面には、梅と躑躅$つつじ$が植込まれ、どちらも季節外れの秋の日に、花も葉も落として奇怪な黒い骨組みとなった梅の木の下に、丸く剪定された葉だけの躑躅がうずくまっているのが、丘の上の方まで続いていた。斜面づたいに一本の小道が通り、それを登りきった一番高いところに簡単な屋根を葺いたベンチがあって、私たちはそこに座った。庭園の中には私たちだけしかいないようだった。
「むこうに見える丘の先に、俺の行っていた高校があるんだけどな。見えないかな」
 こちら側の丘と向こう側の丘の間に、東京から横浜に向う国道一号線の広い道路が通っていて、思いがけずその先のほうに、私が通った高校のある丘が見えていた。私は丘の上にある校舎が見えるのではないかと思って立ち上がった。高校三年生の秋に家を出て東京に来て、次の年の四月から一年間、アルバイトをしながら通った定時制高校の建物を、私は謡子に見せてやりたかった。ベンチから前の方に歩きだして手をかざし、つま先立ちになったけれど、校舎は丘の陰になっているようで見えなかった。私はそちらの方角を指で差し、謡子は私の背後に立っていた。
 そしてその時、高校のある丘の方角を見ながら、私はなぜか突然、ずっと前から言わねばならないと思いながら、言えないできた言葉を、今、言わねばならないという気持ちが高ぶってくるの感じていた。背後に立つ謡子の気配を感じながら、私は振り返ることができなくなった。
「俺なあ」
 私は言いだした。息が苦しくなり、喉がひきつって声がかすれた。
「俺なあ、本当は」
 私はかろうじて、ごくと唾を飲み込んだ。
「俺なあ、今度会ったときから、本当は、ずっとあなたや、あなたの回りの人にコンプレックスを感じているんだ。あなたの事務所に行っても、いつも、どう見られているんだろうって、息を詰めているんだよ、本当は」
 振りむけないままそこまで言うと言葉がとぎれた。そして私はもうそれ以上何も言えなくなってしまった。ほんの少し背後の気配が途絶えたあとで、拒絶するような強い口調の声が返ってきた。
「何言ってんの。あなた何と言って中学を飛びだしたの」
 叱りつけるような強い声、鞭打つような声だった。しかし、それだけで終わりだった。謡子はそれ以上何も言わず、幾らかの沈黙の後で振り返ると、時々見せる、ニッという、はにかむような気弱な笑顔を見せただけだった。私はその様子を見て安心し、軽蔑されなかった安堵感が、心の中に染み込むように広がっていくのを感じていた。
「座ろう」
 そう私をうながすと謡子は再びベンチに腰を掛け、私が並んで腰を下ろすと私の膝を枕にごろんと上を向いた。私はまあるい額に手を添えて謡子の髪を撫でていた。
「丹波橋の駅にね、雪の降る寒い日に青木君と二人だけでいたことがあるのよ」
 私たちがかよった中学校に降りる駅の名を、私の顔を見上げながら謡子は言った。
「卒業式の相談でみんなを待っていたのかな。二人だけになったのはあの時一度だけだった。青木君が少年マガジンを持っていて、見せてやろうかって渡してくれたの。嬉しかったな」
 そして、少し間を置いてから、
「あのころに戻れたらいいね」
 と言った。
「そうだね」
 と私は言った。
「あのころに戻れたらね、私、青木君に、そんなに苦しいことはもうやめて、私と二人で気楽に暮そうって、そう言うわ」
 私はもう何も言うことができず、柔らかい謡子の髪をただ撫でていた。そして、私たちはそれから随分と長い間、無言でベンチに座り続けていた。
 秋の日が傾きかけて西の空が赤く染りはじめ、白かった筋雲が灰色に変っていくころ、高台のベンチを吹く風も冷たくなってきた。謡子は体を起こすと、
「夕飯の買物して帰りましょう」
 と言った。

 威勢のいい声で魚屋が客を呼んでいた。池上梅園から本門寺の丘を越えて降りてきて、手前にあるスーパーマーケットで、もうずいぶん買い込んだのに、謡子はその声に引き寄せられて店先をのぞくと、パックに入った鰯を取り上げて、
「どうやって食べるの」
 と聞いた。魚屋は一瞬ぽかんとして、横にいた私は自分の顔がさっと赤らむのがわかった。知らないふりで、その場を離れてそっぽを向いたが、謡子はもう一度、
「どうすればいいの」
 と聞いた。魚屋はあきれたように、
「醤油で煮付ければいいんだよ。どうせ二百円なんだから失敗してもいいだろう」
 そう、あざけりを含んだ声で答えたが、謡子は自分の質問がどんなふうに受け取られたのか、わからないままに、
「じゃあ、二つ下さい」
 といって、鰯のいっぱい詰ったパックを二つも包んでもらった。買物で大きく膨らんだスーパーマーケットの袋を一つずつ持って、私たちはぶらぶらとアパートまで帰った。横を歩く謡子に聞いた。
「あなた、鰯の煮付け作ったことないの」
「父親が和食がすきで、何かというと、おふくろの味みたいなものを食べたがるのよ。それで、私は和食がきらいになって」
「親父さんの好きな物が食べられなくなるなんて、よっぽど葛藤が激しかったんだね」
 と私が言うと、
「でも最近は、和食もいいなって思いはじめたの」
 と言い、おかずの材料をしこたま買い込んでうれしそうだった。
 この日、私たちは夕食に私の弟を呼び、謡子は張り切って料理を作った。さつまいも御飯、刺身、鰯の煮付け、大根の煮付け、青梗菜の炒め物、つみれ汁と、みな山のようにできて、休日、アパートにいるところを急に呼び出された弟は、テーブルに並んだ皿の数と盛り付けの量を見て目を回した。
「聡君に食べさそうと思って、一生懸命作ったんだ」
 まだ流し台のところでなにかしている謡子の方に顎をしゃくって私がいうと、謡子は、
「そうよ、だからたくさん食べてね」
 と張り切った声でうながした。弟は、
「ありがとう」
 と素直に答えたけれど、
「でもこれは食べ切れないな」
 と笑いながらつけ加えた。
「そうねえ、ちょっと沢山できすぎたわ」
 と言いながら、謡子は最後の料理を皿に盛ってテーブルに運んできた。
 その頃、まだ大学院生で研究者の卵だった弟に、恋人ができたと言い、他人の女房だから親には言うなと釘を差してから会わせたのは春の事で、謡子といるアパートに飲みに来たのはこの日が二度目だった。口数が少なく争うことを好まない弟は、有無を言わさず呼び出されて、無理やり出された山ほどの料理を、文句も言わずに食べながら、
「全部、おいしくできてるよ」
 と褒めて、謡子は嬉しそうだった。「私、落ち着いた家庭が欲しいのよ」。いつかそう言っていた謡子の夢に、私たちはこの夜一番近いところにいたのかもしれない。しかし、謡子が依頼者から貰ったといって持ち帰った、大吟醸の一升ビンがだいぶ減ったころ、酔いの回ってきた弟が、
「今度はうちの両親にも、こんな料理作ってやってくれ」
 と言ったとき、謡子は困ったような悲しそうな顔をして黙っていた。
 夜がふけて弟は帰ると言い、私たちは酔っぱらった弟を大通りまで送って行った。タクシーに乗せるまでのあいだ、くどくなった弟は「おまえら結婚しろよ」と何度も言って私たちを困らせた。
 弟を乗せたタクシーが大通りを走り去って行くのを見送ってから、私たちは薄暗い電燈のともる道を手を繋いでアパートに帰った。謡子が前を向いたまま、横顔だけを見せながら言った。
「この前、上京した父と会ったのよ」
「そんな話、全然してなかったな」
「うん、まあ、突然だったんだけど」
 弁解する口調で言い、そして続けた。
「もう金儲けも疲れたって。一緒に仕事してる若い学者まで、企業から金引っ張ってこいとか言うんで嫌になったみたい。それでね、やっぱり昔みなで細々と金出し合ってやった同人誌が、一番良かったなあって言うのよ」
「いい事言うじゃない。和解できるといいね、親父さんと」
 そう私が言うと、謡子は、
「ううん」
 と言った。肯定しているのか否定しているのか定かでない、小さな声だった。そして、少しの沈黙の後で言った。
「その後で何と言ったと思う。最近、夫婦関係で悩んでるみたいだけど、離婚は結婚よりも人間的な事だからって。父がそんなこと言うとは思ってもみなかったから、びっくりしたわ。お父さん、すごいこと言うねって、おもわず声が大きくなったわ」
「そう。そんなこと言ったの、親父さん」
 私たちはもう何も喋らず、黙々と歩いていた。

     再び、冬

 ふと気がつくと、一年前、謡子と再会した秋の日の日付はだいぶ前に過ぎ去っていた。ある日、
「もう、一年以上たったね」
 と私が言うと、謡子は、
「そう、気がついたの」
 とそっけなく答えた。その様子から、一周年の日を特別の感情を持って迎えたこと、私がその日を忘れていたことに怒っていたのだと気づかされた。弁解するつもりで、
「もう、あなたといることが普通になってきたから」
 と言うと、一瞬息を飲み込むようにした後で、
「そんなこと、言わないでよう」
 と切れ切れに言い、息を継いでから、
「いつ決断してくれるのか、してくれるのかと思っているのに」
 と言い終えると、大きな声で泣き出した。唇が歪んでめくれ上がった、無防備で醜い謡子の泣き顔に打たれるのは久しぶりだった。すぐに、決断するのはあなたの方ではないかという思いが沸いてきたが、次の瞬間には、私は心の片隅にうしろめたさのかけらが、陰を落とすのを感じていた。
 そんなことがあった。季節はもう冬だった。

 エレベーターの付いていないビルの五階まで、制服の入った重いバッグを肩にかけて一気に登ると、いつもの事ながら少し息が乱れた。横浜駅で尻押しをしてきた仲間たちと一緒に五階まで登りきり、ロッカーの上にバッグを置いて詰所の引戸を開けると、今日は「待命」$たいめい$で仕事のない四、五人が私の方を見た。黒沢が、
「青木さん、さっき助役が、小包届いてるから取りに来いって言ってたぞ」
 と言った。私は思い当ることがなく、何だろうと思いながら所長室に行った。
「おはようございます」
 と言いながらドアを開けると、田川助役の座っているスチール机の足元にみかん箱が置いてあって、
「これ昨日届いたよ。持っていって」
 と顎で指した。箱の荷札には千葉県成田の住所と南宏子さんの名前が書いてあって、品名の欄は「芋」になっていた。私はずしっと重いみかん箱を抱えあげて詰所に持っていった。
「青木さん、何だよそれ」
 と言いながら谷が寄ってきた。
「よくわからないけど、成田の友達からだ」
 私がそう言うと、谷は荷札を見ながら、
「成田? 本当だ成田からだ」
 と言ったあとで、いきなり、
「おい、時限装置がカチカチいってるぞ。成田から青木さんに爆弾送ってきた」
 とすっとんきょうな声をあげた。途端に、
「青木さん、やばいよ」
「ああ、もっとそっと開けないとあぶないよ」
 というような声があちこちから飛んできた。私は笑いながら、
「何しょうもないこと言ってんだ、芋だよ芋。つまらない事言うやつは食うなよな」
 と言い返しつつ箱を開けると、一番上に白い封筒が乗っていて、みかん箱いっぱいに立派なさつま芋がぎっしり詰っていた。
 手紙には、七一年九月、反対派と機動隊が衝突して警官三人が死亡した事件で裁判にかけられていた、南さんの夫を含む反対同盟青年行動隊員に、全員無罪の判決が出て確定したこと、傷害致死といえば重罪で、無実の罪で長期の下獄も覚悟した被告の妻たちが、少しでも闘いの費用になればと思って作ったさつま芋を、売る必要がなくなったので少し送りますと書いてあり、農民が土地を取られるのも労働者が首を切られるのも一緒だから、どうか頑張って下さいと結ばれていた。
「しょうもない事言うやつはこの手紙読めよ。成田じゃあ普通の百姓が、からだ張ってるから偉いんだよ。ほら読むか、国労も苦しいけれど頑張って下さいって書いてあるぞ」
 そう言って、谷の鼻先に手紙を突き出したが、谷は、
「わかったわかった。そんなことより蒸かして食おうぜ」
 と、もう芋を二つほど手に持っていた。
「じゃあ、今日は芋の天ぷらでも作ろうか」
 と根津が言った。
 昼間要員機動センターにいる勤務にあたると、私たちはいつも自分たちで昼飯を作って食べていた。そして、根津はいわば私たちの職場の料理長だった。
 根津が日本一大きな新鶴見操車場で働いていた時、そこには千人を優に越える労働者がいた。巨大な構内には所々に詰所が点在していて、労働者は朝、自分の属する詰所に出勤するとジャンパー型の作業着に着替え、ズボンの裾にスパッツと呼ばれる皮の脛当てを巻き付けた。全国から集ってくる貨物列車の組成を一旦ばらして、行先ごとに組み替える操車場の仕事では、「操車」$そうしゃ$とよばれるベテランが入れ替え機関車を手旗で誘導し、ハンプという人工の山から流したり、一定の速度で貨車を押しながら連結器を開放したりして、分解した貨車を扇形に広がった線路に流し込む。それに「飛び屋」とか「バッタ」と呼ばれる若手が飛び乗って、車輪に取り付けられている挺式のブレーキに足を掛け、ちょうどいいスピードで目標の貨車まで誘導して連結しなければならない。飛び乗り損ねたり、作業着の一部でも車輪に触れたりすれば、即、体ごと引きずり込まれて足の一本、場合によれば胴体そのものを、巨大な鉄の塊である貨車によって切り飛ばされる危険があったから、ピチッとした服装は絶対のものだった。
 危険な作業を一体になって行う操車場の労働者は、働くのも一緒、食うのも一緒、風呂に入って寝るのも一緒で、一昼夜交代の職場では、朝出勤するとその日の昼と夜、翌朝の三食を詰所で作って食べた。高校を終えて配属された新人は、仕事よりも先に、まず買出しと飯作りの要領を覚えねばならなかった。そして、どこの構内の詰所にも何人かの玄人はだしの料理人がうまれた。
「谷君と淳ちゃん$あっ$、付き合ってくれる」
 いつものように根津が指示をして、三人が昼飯の材料を買い出しにいくと、私は、天ぷらにして食べたくらいでは、とてもなくなるような量ではないさつま芋を皆に配ることにして、「空港に反対している成田の農民が作った無農薬のさつま芋です。御自由にどうぞ」と書いた紙を貼りつけて詰所の隅に置いた。
 二十分ほどで、根津たちは手に手にスーパーマーケットの袋を下げて戻ってきて、料理を始めた。詰所の一方の端を衝立で区切った食事用のスペースに置いてある、茶色のデコラ張りの大きめのテーブルの上に人数分の皿が並べられ、その横にあるガス台にかけられた中華鍋の中に、器用な手付きで根津が材料を落とし込んでいく。油の発泡する音が電気釜のフツフツいう音に加わり、油の匂いが飯の炊ける甘い匂いに加わって、殺風景な詰所の中に広がっていった。「通勤対策」なら朝か夕方一時間か一時間半、「待命」$たいめい$ならまったく仕事を与えられず、詰所で待機するだけの「強制された怠惰」の中にいた私たちにとって、昼飯の時間だけが解放された時間だった。
 たちまちのうちに天ぷらは揚り、芋とかき揚げとイカがずらっと並んだ皿に盛られていき、御新香に飯と味噌汁がついて三百五十円の昼飯ができあがった。根津が、
「できたぞ」
 と声を掛けると、あちこちでごろごろしていた仲間たちの一斉に起き上がるガタガタいう音がして、どっと食事用のテーブルに寄ってくる。あちこちから手が延びて、飯を盛ったり皿を掴んだり、途端に騒々しくなった。
「仲野さん、またそんなに食うの。そんなに盛ったら飯足らなくなるだろう。第一そんなに食えるのか」
 プラスチックのどんぶりに飯を山盛りしているやつを見て、誰かが冗談とも本気ともつかない声をあげ、大食漢の仲野は、
「大丈夫だよ、大丈夫」
 と意に介する気配もなかった。食事用のテーブルや、ずらっと並べられた長テーブルの思い思いの場所で、皆がせっせと食べ始めると、詰所の中はいっときだけ静かになり、めいめいが食べ終えた食器を洗う頃にはまた騒々しくなり、そしてしばらくすると、詰所の中はぴたっと静かになった。
 昼食の後は、拘束時間が過ぎるまでただひたすら待機しているだけになってしまう。昼飯を食べると昼寝というのがもう全員の習慣になっていた。各駅の応援で仕事に出ている時にも、食事すると眠くなって困ると誰かが言っていたが、そんな具合だからその日も、長椅子を確保した者はその上で、そうでない者は、折り畳み椅子を四つほど並べた上に器用に横になって、詰所の中は静まりかえっていた。
 小一時間ほどたった頃、ガラガラと引戸の開く音がして誰かが入ってくる気配がしたが、支給品のアノラックを引っ被って、横になったままでいると、谷の声がした。
「ああ、下$げっ$ちゃん、職場離脱したな」
「大きい声出すなよ、みんな起きちゃうだろう」
 当惑ぎみの下重の押し殺したような声がして、目が醒めてしまった私が、テーブルの端を掴んで体を起こしてみると、下重は髪を短く切り揃えてさっぱりとした顔をしていた。職場を抜け出して散髪屋に行ってきたのだ。あっちこっちで、もぞもぞと体を起こしにかかる気配がした。
「散髪屋が、早く出て行ってくれって言われたんだって」
 と下重が言った。
 八六年十一月、国鉄最後の合理化と呼ばれたダイヤ改正と同時に汐留貨物駅は全面廃止された。ダイヤ改正で、それまで日に一往復だけ発着していたコンテナ列車が廃止されると、鉄道発祥の地、明治時代の旧新橋駅の上を覆っていた貨物線のレールは見るまに錆びついていった。すでに、数年前から最盛期の十分の一になっていた労働者は、配置転換に備えて待機を命じられる者と、新たに作られた旧汐留駅人材活用センターに収容される「余剰人員」に選別された。職員向けの厚生施設だった散髪屋と購買部は、行く当てのないままとりあえず営業を続けていたのだが、当局から立ち退きを迫られたと、下$げっ$ちゃんの髪を切りながら散髪屋の親父が言ったという。
「まあ、いつまでも放って置かないわな当局も」
 起き上がった黒沢が言うと、下$げっ$ちゃんは思いがけないことを言った。
「それがさあ、ちょっと変なこと言うんだよな。汐留駅中の建物を改造して、七百人収容できる清算事業団の施設にするんだって。それで、一月はじめまでに立ち退いてもらわないと工事が間に合わないって、管理局から言われたんだってよ」
「散髪屋の後に俺たちが入るってわけか」
 おどけた調子で谷が言ったが、誰も笑わなかった。私は思わず窓の外、下方に広がる引き込み線の扇形のレールの向こう、散髪屋と購買部だけが営業している建物と、その隣の旧駅長室の建物を見つめていた。錆ついてしまった扇形のレールの周囲には、その二つの建物と私たちが居る五階建てのビル、それに敷地の反対側にあと一つのビルがあった。当時は、われわれ新橋要員機動センターの四十人の国労組合員と、旧汐留駅の五十数人の労働者だけが収容されていた汐留貨物駅跡地の建物を、翌年四月の分割民営化以降は、新会社からはじき出した労働者を閉じ込める大収容所に変貌させる計画が進行していることを、こうして私たちは知ったのだった。無人の廃墟と化したかに見えるこれらの建物の、窓という窓に人々が鈴なりになって、交差するように重なった腕という腕が天空に差し上げられ、抗議とも咆吼ともつかぬ号々という声が渦巻いているさまが、一瞬私の脳裏をかすめて消えた。
「四十人が七百人になったら、にぎやかになるなあ」
 と谷がまた言うと、
「馬鹿野郎、何言ってんだよ」
 珍しく黒沢が怒気を含んだ言葉を吐いて、それきり誰も何も言わなくなった。
 何だか、その日はそれから詰所の空気の成分が、微妙に変化して重く澱んだようになってしまい、その話には誰ももう触れようとしなかったのに、妙に白々しい雰囲気の中で、時間がいつもよりゆっくりと過ぎていった。
 夕方近くなった頃、引戸があいて田川助役が顔を突き出し、
「青木君、電話かかってるよ」
 と言った。所長室にいって受話器を取ると、謡子の、心細げな弱々しい声が聞こえた。
「膀胱炎が再発したの。入院することになった」
 ずっと後になってある人に、「もう大丈夫だと思っていたのに、なぜあの時再発したんだろう」と言って、「寒くなったからに決まってるじゃない。体が弱ってると、あの病気には寒さがこたえるのよ」と軽蔑のまなざしで言われたが、その時はそんなことさえ分らず、ただ、もう大丈夫だと思っていたのになぜと、理不尽さへの怒りのような感情がわいただけだった。もうすぐ師走、再び冬がめぐっていた。一九八六年の冬は寒かった。

 謡子が入院したのは、アパートのある地下鉄新高円寺駅から、都心方向に二つ手前の中野坂上駅で降り、青梅街道を少し歩いたところにある、内藤病院という小さな病院だった。朝七時半からの勤務時間が午後四時半で終わると、私は新橋から地下鉄を乗り継いで病院に急いだ。暗闇の中をガァーという騒音を発して突っ切っていく地下鉄のシートに座りながら、私は、「母親は膀胱炎がひどくなって腎臓まで炎症を起こす大病をした。それで私一人しか子供を産めなかった」と、ずっとまえに謡子が言ったことばを思い出していた。
 初冬の日の暮れるのは早い。中野坂上駅について地上に出ると、もうあたりは薄暗くなっていた。新宿副都心の高層ビルが、薄墨を流したような夕暮れの中、そんなに遠くもない距離に見えているのを背にしながら、ライトを点けはじめた車の列で相変らず混みあっている青梅街道を、電話で教えられた方向に行くと、電柱に「内藤病院」の文字と左向きの矢印を書いた看板がくくり付けられていて、その矢印の方向に折れる細い道路の五十メートルほど先に病院はあった。
 灰色のモルタルが外壁に塗られた四階建ての病院には、前の年からこの年のはじめにかけて何回も膀胱炎になったとき、謡子は何度か治療に来ていたが、私はもちろん初めてで、受付の人に病室の場所を聞いた私は、古い階段を昇って二階に行った。階段を上がり左に曲ると小さな病室が並んでいて、そのうちの一つに仁科謡子の名札が掛かっていた。ベッドが二つだけの病室に、謡子は老婆と二人で静かに眠っていた。私は物音を立てないように気を付けながら、椅子を引き寄せてベッドの横に座った。ものの数分で謡子は寝返りを打ってこちらを向いて私に気がついた。
「あれ、いつ来たの」
 と言った謡子の声が案外元気だったので私はほっとした。
「来たばかりだよ。どうなの具合は」
「そんなに重くないから、四、五日で退院できるだろうって」
「そりゃあよかった。電話の声が心細そうだったんで心配したよ。でも、もうかからないと思ってたのにな」
「ここんとこ、忙しかったからね」
 と謡子は小さな声で言った。平沼さんの一件は書面を提出して一段落したけれど、金にならない事件が次々と謡子のところに持ち込まれていた。「どうして断らないの」と聞くと、「私、気が弱いからね、断れないのよ」と言って暗い顔をした。なかなか引き受け手が見つからなくなってきた、公安事件の当事者たちから頼み込まれると、謡子は嫌と言えなかったのだ。私は、
「この際、ゆっくり休んで完全に治す方がいいよな」
 と言い、謡子は、
「うん」
 と同意した。それから私に入院中に着替えるパジャマと下着、それにレディースコミックを一冊買ってくるように命じた。若いOL向けのしょうもない「夢の恋愛物語」が満載された漫画本を読んでいることがばれて恥かしいのか、私に頼んだのは「割とまともなストーリーが多いのよね」と、ツンとした口調で弁解した。女物の下着など買うのは初めての私は、頼み事に一瞬ひるんだけれど、病院から外に出るともう真っ暗で、青梅街道沿いのスーパーマーケットの衣料品売場で、女物のパジャマを一組とシャツとパンティー三組をバスケットの中に入れると、体を固くしながらレジの列に並んだのだった。
 この日、散髪屋の件は黙っておいて、南さんが芋を送ってくれた話だけをした。仲間たちが「カチカチ音がする」と言って騒いだ話をすると、謡子はケラケラと笑って喜んだ。
 謡子は五日間入院して十二月のはじめに退院することができた。暮れから正月にかけて北陸の温泉に行く計画を立てていた私たちは、早く十二月が過ぎてくれることを願っていたのだが、しかし結局、謡子は新しい年を迎えることができなかった。
 謡子が内藤病院に再入院したのは、師走も半ばに近い日のことだった。

     *

 朝七時、
「検温にうかがいます。体温を計っておいてください」
 と言うアナウンスが病室のスピーカーから流れてきて、内藤病院の一日が始まった。謡子が再度入院してから三日目の朝だった。
 私のアパートで隣の布団に寝ていた謡子が、深夜、熱がありそうだと言って私を起こし、計ると八度五分あって、てっきり膀胱炎が再発したと思ってあわてたのは、退院してから一週間後のことだった。
「完全に治ったって言われて退院したのに、こんなになるんだったらそう言って欲しいわ」
 謡子はうらみ言をいってべそをかいたが、朝になって内藤病院に連れて行くと、意外にも風邪だと言われ、その時は二人ともほっとしたのだが、しかし、熱は下がらず食べ物も受け付けず、それから二日後、ついに再入院したときには肺炎だと診断された。その日の夜に三十九度九分まで熱が上がり、ひどい下痢と大量の汗で、パジャマやシーツをぐしゃぐしゃにして、何度も看護婦さんの世話にならねばならなかった。それで私は、二日目の夜から付き添いのために泊り込んでいた。
 アナウンスの声を聞いて起き上がると、私は布団をたたみ、付き添い者用のベッドを謡子の寝ているベッドの下に押し込むと椅子に座った。謡子の体温は三十七度八分だった。入って来た看護婦さんに体温を告げてから、病室の隅のテーブルに山になっていた洗濯物を抱えて屋上に行った。寝間着がかなりの枚数に何枚かのタオルとバスタオル、それに一枚の毛布。どれもこれも、一晩のうちに謡子のかいた大量の汗を吸って重かった。ものすごく風の強い日で、私は屋上に置いてある二台の洗濯機を回しながら、そんなに広くもない屋上の所狭しと張られたロープで、たくさんの洗濯物が立てている、ばたばたという音を、聞くともなしに聞いていた。洗濯がひと段落して、買ってきたパンとミルクを食べてから、折りたたみ椅子に座ったまま居眠りをした。その時はまだ、病人は夜も昼も寝てられるからいいけれど、付き添いは、夜寝られなくても、昼間起きてないといけないのはつらいな、などと勝手な事を考えていたのだ。
 しばらくすると点滴が始まって、謡子は針を刺す時、
「痛い」
 と大袈裟に痛がった。
 ベッドの頭のところには、十二月十四日と、入院の日を書いた札が下がっていたが、そこには、篠田という主治医の名前も書いてあった。十時頃だろうか。午前の回診で篠田医師が回ってきた。頭に三分の一ほど白いものの混じった人の良さそうな初老の医者と、私はこの時初めて会った。
「肺炎はひどいようだけど、年寄りや子供ならともかく、若い人がどうかするような病気じゃないから心配はありません。もう、薬で菌は死んでいるはずだけど、あと少し熱は引かないと思います。今は熱との闘いですからがんばるように」
 医者の表情はあくまでも柔和で自信に満ちており、明るい声には、ほんの少しの陰りも感じられなかった。私は最後の最後まで、この時の医者の言葉と表情を信じ続けて疑わなかった。
 この時、謡子は入院生活の中で一番元気がよく、一番希望に満ちていた。前日まで下がらなかった熱が、この時幾分下がっていた。
「食欲も少しは出てきました」
 と言い、篠田医師は、
「それじゃあ、夕方から何か食べてみるか」
 と言った。
 お世話をしてくれた看護婦さんに、
「入院する前は飲まず食わずだったんでしょう。そんな時は、スポーツ・ドリンクを飲めばいいのよ。あれは体液と同じだから」
 そう教えてもらっていた謡子は、回診の後で、
「スポーツ・ドリンクを飲みたい」
 と言いだした。本当に人の言う事をよく聞き、よく信じる人だった。私はその事を言いにナースステーションに行き、私の話を聞いた看護婦さんは、
「いいですよ。先生もいいと言っていたし。でも、一応聞いてきます」
 と言った。結果を聞く前にコンビニエンスストアに行って、買い物から戻ると、看護婦さんが先に病室にきてくれたらしく、謡子が、
「飲んでもいいって言われたわ」
 と言った。そして、
「乳酸飲料もいいですよって。後で買ってきてくれる。でも本物のでなくちゃ嫌よ。他のはにおいが嫌なの」
 と続けた。私は相変わらずわがままだなと思ったが、後で買ってきてやるつもりでいた。
 しかし、飲み物を口にしてからそんなにたたないうちに、謡子は胃の中身を全部吐いてしまった。ずっと食べていないので固形物は何もなく、唾液のような白い液体と、赤茶色の液体だけが出た。私は、ああ、まだ無理だなと思い、謡子も、もう飲み物を買ってきてくれとは言わなかった。
「ねえ、知ってる。不倫の危機はどちらかが病気になる時なのよ」
 突然、謡子が言った。
「ううん」
 私は、いやに俗っぽい事を言うなと思って、一瞬、言葉に詰まった。どこでそんな事を覚えたのか。たぶん女性週刊誌だったのだろう。謡子は、実はその手の雑誌のその手の記事が大好きで、一度、私のアパートのある私鉄の駅を降りたら、夕食の買い物をして先に帰っているはずが、駅前の本屋でマーケットの袋を下げて、婦人雑誌の「読者体験欄」を立ち読みしているのを見つけた事がある。ポンと肩をたたくと、謡子は、見られたあという顔をして、「もう帰ってくる頃だから、やめようと思ってたんだけど」と笑ったことがあった。
 朝は比較的元気だった謡子の具合はだんだん悪くなっていき、咳をするとき出る痰に赤い物が混じりだしたのはこの日の昼間からだった。謡子が、
「治っても旅行には行けそうにないな。木内さんに、行けなくなったって連絡してくれる」
 と言った。謡子は、年末には私と北陸の、年の初めには、高校以来の友達と紀州にと、温泉旅行のはしごを計画していて、本当にこの年末年始を楽しみにしていた。親友には電話で、
「この旅行を楽しみに、がんばって仕事している」
 と話していたようだ。私は頼みを聞いてそうかなと思った。治ったら行けるようになるかもしれないし、断ることになるにしても、まだ先でいいだろうと思えて連絡しなかった。しかし実際には謡子の方が、自分の体の状態を正確に知っていたのだ。
「ほんとうに、耐えられなくなったら親を呼ぶよ」
 と言ったのもこの日の事だった。私は、
「いいよ」
 とだけ短く言った。そして、長くなるようなら知らせるしかないなと思った。
 私はもちろん、そんな形で謡子の親と会いたくはなかった。しかし、入院が長引き、両親にも知らせる事が必要になるのなら、そうするつもりだった。怒ったような謡子の口調の中に、本当は親を頼りにしている本心を見たような気がした。
 この日、半日だけ年休を取っていた私は、午後三時五分までに出勤しなければならず、そのためには遅くとも二時半よりも前に病院を出る必要があったが、その時刻が近づいてくるにしたがって、謡子の表情は苦しそうになっていった。何本目かの点滴が終わりそうで、それが二時半を少し回りそうなのだが、熱でハアハア言っている謡子は、メガネをはずしていて、点滴の終わりを自分で知らせることができそうにない。私は、遅刻しても仕方がない、この点滴が終わるまでいてやろうと思った。謡子が、
「出かける前に看護婦さんの所に行って、点滴の終わりを見てほしいという事と、汗をかくので寝間着を替えて欲しいと頼んでおいてよ」
 と言い、
「ほんとうに頼んでよ。あなたはどうも、私の言ったことを割り引いて伝えるから信用してないの」
 と念を押した。事実、私は、点滴針を刺す時の痛がる様子や、熱でハアハア言っている様子を見て、大袈裟だなあと思っていたのだ。どうも私は、いろいろな事を看護婦さんに頼むのは悪いような気がしてひるんでしまう。でも、謡子の言った事は全部伝えてやらねばと思い、出かける前にナース・ステーションに寄って、
「仁科ですが、仕事に行かなくてはなりません。点滴の瓶を見られないのでお願いします。それと、汗をかいたら寝間着の着替えもお願いします」
 と頼むと、看護婦さんはこころよく承知してくれた。今夜は来れるのかと聞かれ、
「八時頃には帰ります」
 と言って、遅刻だなと思いながら病院を出た。

 この日の仕事は午後七時に横浜駅で終りだった。無理をして、七時二分発の上り電車に飛び乗った私が、八時少し前に病院に着くと、もう照明の消えた暗い病室で、当然のことながら謡子は一人で待っていた。点滴の事も着替えの事も、看護婦さんがしてくれたようなので、
「ちゃんとしてくれたろう。しっかり頼んでおいたから」
 と威張ったが、謡子は半日それどころではなく、本当に心細かったのだろう。
「不安なの。職場の事でも何でもいいから話してちょうだい」
 という、小さなしかし切迫した調子の声が、私の呑気な声をさえぎるように返ってきた。その声の調子に胸を突かれた私は、ベッドの横の椅子に腰掛けると、何を話そうかと迷った後で口を開いた。
「そうだな。今日は嬉しい事があった。付き合いはじめて二年、まったく組合には無関心だと思ってた人が、初めてこんな事を言いだしたんだ」
 職場であった事を話しだしたのだが、何かその場にそぐわないような気がしてやめてしまった。続けて欲しいとは言われなかった。しばらくしてから謡子が言った。
「寝ていると、夢の中で、白い服を着た死神がいっぱい、アイスクリームを持ってやって来るの。食べないように必死で頑張ったわ」
 それから、熱で唇と喉が渇くと言い、唇を湿らせて欲しいと頼んだ。私はガーゼに水を含ませて唇を拭き、少し開いた赤くぽってりとした唇の間に幾滴かの水を落とした。この時から、その頼みはだんだん頻度を増していった。
 寝る前に私の体温を計ると七度三分あった。寝不足が続いてかぜ気味だった。できるだけしっかり寝ようと思いながら、付き添い者用のベッドを引っ張りだすと、横になった。
 どれくらいたったろう。謡子が、
「青木君、まだ起きてる」
 と言って私を起こした。そして、寝入りばなをを起こされ、不機嫌な唸り声を上げた私に、
「この病気、彼を不幸にした罰じゃないよね」
 と言った。わけの分らないまま、
「そんな事あるわけないだろう」
 と尖った調子で言うと、
「そんな事ないよねえ、ないよねえ」
 と消え入りそうな声で言いながら、
「彼は電話で、ばちが当たったんだって言ったのよ」
 と続けたのだ。私は半分寝ていた頭を、ぐいと捩られたような気がして目が覚めた。彼にはもう電話をしていないと思っていた。彼の方から、謡子のアパートに電話がかかることも、随分前になくなっていたから。私には言わないで、私の知らないところで、謡子が彼と話していたという事実が、目覚めた私の動悸を速くさせたが、いくらも間を置かず、私は心の体勢を建て直して言った。
「そんな事はないよ。俺の所に来たのは仕方がなかった。しようがなかったじゃないか」
 闇の中で体を起こし、謡子の手を取りながら、そう何度か言うと、
「そうよねえ。仕方なかったよね。仕方なかったよね」
 と繰り返しながら、ようやく落ち着いたように思えた。私が再びベッドに横になると、謡子はもう話しかけてはこなかったが、起きている気配がしていた。

 朝が来た。
「検温にうかがいます」
 と言うアナウンスが流れてきた。謡子も私も、もう熱が下がる頃だ、下がるはずだと思っていたので、前の日あたりから熱を計ってみる回数が増えてきた。そのたびに、九度近くあったり、時には七度台の上の方だったり、はっきりと下がる事がなかった。この朝も体温は下がっていなかった。医者の話ならもう下がらなくてはおかしかった。長くなりそうな予感がして嫌だった。起きていくらもたたないうちに、謡子は、
「昨日の夜は、精神状態、最悪だったわ。ごめんねえ」
 と謝った。人が気を悪くしているのがわかると、本当に身を細らせるほどに恐怖してしまう人で、何かあるとすぐ口ぐせのように「ごめんねえ、ごめんねえ」と謝るので、「あなた謝るの癖だね」とよくからかっては、そんなに人に謝る必要はないんだと言ったが、最後までなおらなかった。
 看護婦さんがはいってきて、
「様子はどうですか」
 と聞かれ、
「息は苦しいし、熱はいつまでも下がらないし」
 とべそをかき、
「あなたが頑張らなくちゃ、治るものも治りませんよ。元気を出して」
 と励まされた。私がその言葉を聞いて、治るものも治らないとはどう言う事だろうと、ぼんやり考えていると、
「病状を説明しますので、あなた来てください」
 と言って看護婦さんは病室を出ていった。謡子は、
「青木君だけ呼んで説明するなんて、よほど悪いのかなあ」
 と心細げに言った。私はそんな事はないだろうという意味の事を言ってから、ナースステーションに行くと篠田医師が待っていた。蛍光灯で照明された白いパネルには、入院したときと、前日の午前中に写した二枚のレントゲン写真が乗せられていて、それを指差しながら説明する医者の口調は、さすがに前日の朝とは違って緊張ぎみだった。
「白い肺炎の影が消えていません。同じ状態のままです。全体に、白い影が広がっているでしょう。肺炎は重いと言えます」
 私は、二枚のレントゲン写真をのぞき込んだ。ボゥと白いもやのようなものが広がっているのはわかるが、それ以上の事はもちろん何もわからなかった。
「それで、今日の夕方からグロブリンという強い薬を使います。こういう場合は三日間だけ使って良いということが、法律で決められています」
 「法律で」というくだりが、頭の中で幾度かバウンドすると、「副作用」という言葉が浮かんだ。医者は私を呼んで、副作用のある薬を使うことに同意させているのだという事は分った。そして、何か質問すべき事、言うべき事があるという思いが募ったが、しかし結局、私は幾分緊張ぎみの医者の顔を見返しただけで、何も言わなかった。医者の断定的な態度に気圧されたこともある。そして、病気にも病院にも、何の経験も知識も持たない私には、医者に質問しようにも、質問すべきことがわからなったのも確かなことだった。黙っている私に、医者は、
「この事は、彼女には言わない方がいいよ。がっかりしているようだから」
 と続けた。
 病室に帰る途中、何と言おうかと考えたが、熱が下がらないのは事実だから、何も言わないわけにはいかなかった。病室について、
「炎症はおさまってない。前のままだって。肺炎の程度は中くらいって言っていたよ」
 と症状だけは軽めに、まだ炎症がおさまっていない事はありのままに言った。
 前夜は静かだった謡子の息は、午後になるとだんだん苦しそうになり、周期的にゴボッ、ゴボッという咳をするようになっていった。そのたびに唇のところまでピンク色の血が混じった痰が出てきて、ティッシュペーパーで拭き取らねばならなかった。ゴホンと最後まで咳をすることができず、痰が切れない様子は後になるほど痛々しくなっていった。私は謡子が苦しそうにすればするほど、熱が下がるまでだ、下げなければと、それだけを思い、ただ氷枕の氷を替え、氷嚢の氷を替える事しか考えないようになっていった。謡子は様々なサインを出し、様々な事を言ったのに、エッと思ったりハッとしたりしてもそこから先に考えは進まず、病院に何かを訴える事もしなかった。この日の午前中、謡子は初めてうわごとを言った。弱々しくて無意味な切れ切れの言葉が私の胸を突いたが、それから思考は一つも進まず、私は何もしなかった。夜までに謡子は三度うわごとを言った。
 そして、謡子は確かに、
「私、もうそこに誰がいるのかわからないの」
 と言ったのだ。その時も私はエッと思った。しかし、
「ううん?」
 と言っただけで、謡子に質問を返す事もしなかったのだ。「もうそこに誰がいるのかわからないの」。この言葉の意味をなぜ私は真剣に考えなかったのだろう。謡子の苦しそうな息は続き、ゴボッ、ゴボッという咳は出続けた。私はそのたびにテッシュペーパーで痰を取り続けた。
 謡子が私の方を見てニッと笑った。顔を少しかしげ、私の顔をじっと見つめて笑う、あの笑いだ。無心なこの笑い顔が私は好きだった。しかし、この時はもう、ずいぶん弱々しい笑い顔になっていた。
 氷を売っている自動販売機のところに、この日、何回目かに行って帰ってくると、ナースステーションのところで篠田医師と会った。午後の回診の帰りだとわかった。何か言われるかなと思ったが、医者は私を見ると、小さく、
「あっ」
 と言っただけで何も言わずに私の横を通りすぎた。わずかに顔をそむけたような気がしたのは、私の思いすごしだったのだろうか。結局、この日、私は午前中の回診にも午後の回診にも立ち会わなかった。謡子は医者に何を言ったのだろう。そして、医者は謡子に何を言ったのだろう。
 謡子は、相変わらず熱は下がらないのに、まるで汗をかかないようになってしまった。「おしっこ」と言って、起こしてやるときは、全体重を私の腕にあずけるので、ずんと重かった。
 グロブリンの点滴が始まったのは夕方からだった。篠田医師が様子を見にやってきた。
「今日から三日間この薬を使います。肺炎の特効薬ですから」
 と言い、
「頑張って」
 と激励して帰った。私は篠田医師の「三日間」という言葉を聞いて、長くなるかなとまた不安になった。そして、この薬を使っても熱が下がらなかったら、親に知らせるしかないなと考えていた。謡子が、
「これまでした病気の中で、いちばん苦しいわ」
 と言い、
「毎日、いつ良くなるか、良くなるかと思っているのに、だんだん悪くなるようだ」
 と半ば泣き声で言った。私は、
「新しい薬を使ったから、これで熱も下がるだろう」
 と言った。
 上を向くとゴボッという咳が出る。横を向いている間はこの咳が出ないので、いくぶん楽なようだ。それで、こちら向きに横にさせ、謡子の顔に顔を近づけ、
「スーー、スーー、スーー」
 と声を出して、看護婦がそうすれば楽だと教えてくれた「静かな長い息」をさせようとだいぶくり返した。謡子は私の声にあわせて少しは試みたが、結局うまくいかなかった。横だけ向いているのもつらいようで上を向く。するとゴボッという咳が出て苦しむということが続いた。
 消灯の時刻を過ぎても謡子は眠れなかった。氷枕は大丈夫だが氷嚢の方は体の向きを変えるとはずれてしまう。それで私は氷嚢を手に持って謡子の頭に乗せていてやるようになった。眠らなければ体力が消耗するのはわかっているから、何とか寝かそうとするのだが、時々、ゴボッ、ゴボッという咳が出て、無理やり痰を切らねばならないので眠れないのだ。
「昨日と今日くらいが山だったのかなあ」
 と言ったのは消灯時刻を過ぎてからの事だ。私は、
「そうだな」
 と相槌を打った。明日になれば新しい薬が効いて熱も下がるはずだった。
「今、何時」
 と聞くので、時計を見ると日の変わる時刻だった。
「十二時だよ」
 と言うと、
「えー、まだー」
 とほんとうに絶望的な声を上げた。この頃から、時間はまったくのろのろとしか進まず、今の苦しみが永遠に続くかのように思えてきたのだろう。
 この夜の看護婦さんはメガネをかけた年配の人で、回ってくるたびにいろいろ世話してくれるやさしい人だった。
「汗をかくといいのにね。熱が下がらないわね、寝られないから苦しいわね」
 そう同情してくれて、
「もし息が苦しいようなら、酸素吸入することもできますからね」
 と言った。謡子は、
「それじゃあ、お願いします」
 と言った。メガネの看護婦さんともう一人が大きなボンベを運んできた。細いビニールの管の先端に二つ、鼻の穴に入る一センチばかりの突起のついた物がボンベにつながれ、その突起が絆創膏で顔に止められると、ボンベのコックが開かれた。謡子はまだその時、自分の呼吸器に接続されたものものしい装置を見ながら、看護婦さんに、
「少し、大袈裟かなあ」
 と言って笑いかけていた。
 ガーゼに含ませた水を必死に吸うしぐさは、赤ん坊が乳房を吸う姿とそっくりになっていた。ボォッと開けているかいないかの目をして、ガーゼの水をチュウチュウと吸う姿が私の瞼に焼きついている。
 謡子がまた、
「今、何時」
 と聞いた。二時になっていた。
「二時だよ」
 と言うと、
「ええ、まだ」
 とさっきとまったく同じ声を上げた。もう時間はまるで進まなくなっていたのだ。
 謡子が、氷嚢を当てている私に向かって、突然、
「もう寝たら」
 と言ってニッと笑いかけた。本当に弱々しくて、私に同情し私を励まそうとするかのような笑顔だった。この時はもう苦しくて心細くて仕方がなかっただろうに。私が好きだった、謡子の無心な笑顔をみた最後だった。時間の感覚、状況の理解がはっきりしない、夢の中で言っているような感じがした。私は、
「何を言ってるんだ。あなたが寝るまで起きてるよ」
 とまた言って励ました。謡子は何も言わなかった。
「酸素出てるの。出てないみたいよ」
 と言った。もう酸素が鼻に吹き出す感覚も、わからなくなっていたのか。
 私も必死になってきて、早く朝にならないかなと思いながら、氷嚢をあて続けていた。氷枕の他に氷嚢を三つ作った。両脇にはさんでやろうと思ったが、熱を計る方の脇にはしないで下さいといわれ、
「足のつけ根になら、してもいいのよ」
 と言われたので、足のつけ根に当ててやり、
「楽か」
 と聞いたら、笑い声で、
「なんかおかしいね」
 と言った。それからは両手に一つずつ氷嚢を持って、頭の方と足の方に当ててやることになった。体の向きを変えるので、脇の下のははずれる事も多かったが、謡子の体はこれで、計四つの氷枕と氷嚢で冷やされる事になった。
 四時近くになった。もう、だいぶ前から、ゴボッ、ゴボッという咳は少なくなり、ハッ、ハッ、ハッという短い息だけになっていた。私は、炎症がおさまってきたのかと思っていた。私たちはもうお互いに何もしゃべらないで、時間だけが少しずつ進んでいった。
 また、やさしいメガネの看護婦さんがやってきた。謡子の手をとり、指先をさわって見つめながら、
「どうですか」
 と症状を聞いた。謡子は、熱と息の事で何か言った後、
「少しおなかが痛い」
 と言った。看護婦さんはそれを聞いて、考えをめぐらせているようだったが、ふと何かを思いついたような表情をすると、
「それじゃあ、先生に言ってきましょうね」
 と言うと出て行った。看護婦さんが出て行って五分くらいたった頃だろうか。謡子は体をむこうに向けて、ハァ、ハァ、ハァ、ハァと短く息をしていた。私は黙って二つの氷嚢を当てつづけていた。突然、謡子が小さい声で、
「あっ」
 と言った。突然部屋の電気が消えて「あっ」と言う、そんな感じだった。苦しそうな短い息が、一瞬パタッと止まったと思うと、次の瞬間、ザザーッという音をさせて、大きな深呼吸のような息をして、またパタッと呼吸が止まった。いくらかの間隔を置いて、ザザーッという、波の打ち寄せるような音をさせて、大きな息は何度か繰り返されて停止した。私は最初の瞬間こそ、何がおこったのかわからなかったが、異変であることはすぐにわかった。謡子を抱くと、
「謡子ちゃん、謡子ちゃん」
 と大声で呼んだがもう何の応答もなかった。私はナースコールを押して、
「呼吸がおかしいんです。来てください」
 と叫んだ。
「謡子ちゃん、謡子ちゃん」
 と呼び続けながら、一瞬おかしな考えが頭をよぎった。私は何か照れくさくて、普段「謡子ちゃん」と呼ぶことはなかった。「あなた」とか「あんた」と言うことが多く、それが謡子には不満だった。それで、大声で謡子の名を呼ぶ自分がが奇妙に思えたのだ。しかし、それはほんの一瞬の事で、次の瞬間にはまた、我を忘れた大声で、私は、
「謡子ちゃん、謡子ちゃん」
 と呼び続けた。しかしこれ以降、謡子は誰のどんな呼びかけにも、外界からのどんな刺激にも、もう一切答える事はなかった。
 ばたばたと何人かの看護婦さんが病室に駆け込んできた。頭の方で看護婦さんたちが何かをはじめた。私は、両足にすがりついて、謡子の名を大声で呼び続けた。頭を短く刈った若い医者が来た。入ってくるとすぐに、
「何だこれは」
 と叫んだ。そして、
「心臓も止まってるじゃないか」
 と言った。若い医者と看護婦さんたちは、あたふたとまた何かを始めているようだったが、謡子の足にすがりついて、
「何とかしてやって下さい。何とかしてやって下さい」
 と繰りかえしている私には、何をしているのか見えなかった。今や私にも何が起こったのか、それははっきりしていた。謡子の呼吸と心臓の鼓動が止まったのだ。
「ここは狭いなあ」
 なにかをしている医者が、やけのような調子で吐きすてるように言った。いつのまにか、一人の看護婦さんがベッドの上にあがり、突っ張った腕で謡子の胸を規則的に押して心臓マッサージをしていた。医者は、あおむけになった謡子の頭をベッドの端から下に垂らし、金属製の嘴のような物を口に突っ込んで、食道を覗き込んでいた。
「こんな事があっていいのか。これからだったのに」
 という言葉が口を突いて出てくると、私はワーワーと泣きだした。
 医者が何か言った。それに看護婦の誰かが何か答えた。すると医者は、
「やるだけは、やってみようや」
 と言った。私はまだ、
「何とかしてやって下さい。してやって下さい」
 と繰り返していたが、医者が入ってくるなり言った「何だ、これは」という言葉や、この時の「やるだけは」という言葉からも、彼らが本当はもう投げていることはわかっていた。しかし奇跡が起るかもしれないではないか。
 いつのまにか、狭い病室に何台かの機械が持ち込まれていた。心電図を表すブラウン管に写る一本の線は、看護婦さんが体重をかけてグッと押すたびにピピッ、ピピッと上下に揺れて動いた。
 真空ポンプのような機械の先に取り付けられたゴムの管が食道に差し込まれると、ウイィーンという吸入音とともに、胃の内容物がガラス瓶の中に吸い上げられた。赤いような茶色いような、どろっとした液体がガラス瓶の中に溜まっていった。
 強制的に肺に空気を送り込むポンプが、パタン、プシュッ、パタン、プシュッと動き出し、謡子の口はノズルをくわえた。薄く目を開けてノズルをくわえた謡子の顔は、怒ったような、必死の形相をしていた。しかしそれはもう、一切のことに反応しない、心を持たない物体の表情になってしまっていた。
「謡子ちゃん、謡子ちゃん。かわいそうに、かわいそうに」
 謡子の名を呼びながら、私は大声で泣き続けた。心電図のブラウン管を何度か覗いた。看護婦さんが体重をかける時にピピッと動くほか、自律的に動きだす徴候はまったくないようだった。
 両親と事務所の人たちに連絡しなくてはならない。私は謡子が入院するときに持ってきた鞄の中から、見慣れた電話帳を捜し出すと、一階まで行った。頭と体がボォッとして何が何だかわからず、財布を忘れたりして、二度ほど、一階と三階を往復してから、やっと事務所の野々村さん宅のダイヤルを廻した。四時半頃だった。
「野々村です」
 というボヤッとした声がした。
「青木ですが、仁科さんの、呼吸が、止まりました」
「ええ」
「仁科謡子さんの、呼吸が、突然、停止して、今、蘇生術を行っているんです」
「ええ、ええ」
 野々村さんは事態が飲み込めない。何か、二言三言いった。そして、それから、
「大丈夫なんでしょう」
 と続けた。私にはもう、駄目だということがわかっていた。しかし、
「大丈夫で、なければ、なりません」
 と切れぎれに言って、両親と彼に連絡してから病院に来てくれるよう頼んだ。
 主治医の篠田医師が病室に来たのは、だいぶたってからの事だった。篠田医師が何か言い、私は、
「危険だとも、あぶないとも、一度も言われなかったんですよ」
 と泣きながら訴えた。医者は何か弁解めいた事を言ったが、私には聞こえなかった。
 どれくらいたったろうか。若い医者が、これ以上続けても駄目だという意味の事を言った。しかし私にはとても、もう結構ですとは言えなかった。
「せめて友人が来るまで続けて下さい」
 と言った。心臓マッサージは続けられた。しかしいつまでたっても野々村さんは来ない。医者が、
「これ以上やったら肋骨が折れちゃう」
 とまた言った。私は、
「結構です」
 と言った。謡子を蘇生させるための努力はその時点で放棄された。
 私は心臓マッサージをするために、ベッドに上がっていた看護婦さんに、
「もう、そこの場所はいらないんでしょう。横に寝てやります」
 と言って場所を代わってもらい、謡子の脇に横になった。医者と看護婦は何か言いかわして、強制的に肺に空気を送り込む装置だけは、取り付けたまま居なくなったが、それはもう蘇生のための装置ではなく、遺体を保存するための装置でしかなかった。
「かわいそうに。苦しかったんだなあ。もう何もわからないんだなあ」
 謡子の体を抱きながら泣き続けた。薄く開けていた目を閉じてやった。さっきまで熱のためにポォッと火照っていた謡子の体はもう冷たくなってきていた。
「野々村さん遅いなあ。何してんのかなあ」
 と謡子に向かって言った。様子を見にきた看護婦さんにいてもらい、私はもう一度一階に下りて電話した。電話に出た野々村さんは、
「彼のアパートには知らせに行ってもらったけど、実家の電話がどうしても分らないのよ」
 と言った。私もどうにかして調べますといって電話を切った。私は故郷の家に、大学関係者の住所録がないだろうかと思いあたった。父の勤める大学は謡子の父親のいる大学とは違っていたが。私は電話口で、
「入院していた恋人の呼吸がとまった」
 とやっとの思いで話し、住所録がないかと聞いた。そういう住所録はあって、父親は難なく電話番号を捜し出した。私は野々村さんから電話してもらおうと思い、故郷に繋いだ電話を切ると、すぐダイヤルを回したが話し中だった。向こうでも調べるために、どこかに電話をしているのだろう。何分かおきに電話をした。しかし、何度かけても依然野々村さん宅の電話は話し中のままだった。私は意を決した。直接かけるしかない。謡子の両親と初めて交わす言葉が、こんなものになろうとは。
 私は謡子の両親の住む家の電話番号を回した。肺炎で入院していた事、青木という者で、付き添っていたが容体が悪化したと言い、両親に来てほしいと告げた。本当の事はとても言えなかった。病室に戻り、謡子の脇でまた泣き続けた。
 どれくらいたったろうか。野々村さんが病室に来た。
「こんな、こんな事があっていいの」
 ノズルをくわえて横たわる謡子を見て、野々村さんは絶句した。野々村さんが、もういい、かわいそうだからと病院に話して、強制的な呼吸装置ははずされた。私はノズルが入っていたために開いたままになる口を閉めてやった。
 謡子を抱きながら泣いていた私の頭に、また奇妙な観念が沸いてきた。ああ、宗教の生まれる場にいる、という観念だった。私は現実を現実として、とても受け入れることができないのだから。私の眼前で謡子が死んでしまった、もうどこにも謡子がいないなどということを、私がどうして受け入れられよう。いつも冷静に自分を客観化して観察する、そんな自分が私はずっと嫌いだった。ああ、こんなになって、まだ俺は外から自分を見ているという嫌悪感が、ふと私を我に返らせたが、次の瞬間、再び悲嘆の洪水が心の中に溢れ出て、その奇妙な観念と嫌悪感をともに押し流してしまい、私はまた泣き続けた。
 いつか、謡子と一緒に新橋要員機動センターにやってきた、司法修習生の斉藤さんが来た。謡子の脇に横になっていた私は、
「もう、さわってもやれなくなります。撫でてやって下さい」
 と言うとまた泣いた。そして、次々に多くの人々がやって来た。

     *

 人々がやってくる頃には、いつの間にか、謡子の顔はやさしく微笑んでいる子供の顔になっていた。謡子がいつも、あなたは私を覚えていなかったと言ってなじり、私が、いや顔だけは覚えていたと弁解した、十三才の時の顔だった。しばらくたつと謡子の顔は、いつもの見慣れた普段の顔になった。しかしその時、唇にキスをすると、もう肉のにおいがした。そしてまた時間がたち、お棺に入れる頃には、目の縁に皺ができて、死んだ人間の顔になっていた。

 両親が病室に入ってきた時、私は折りたたみ椅子に座って、謡子の枕元にいた。額が丸く頭髪も薄くなった小柄で痩せた父親と、ひょろっと背の高い母親は、病室に入る前に、すでに謡子が死んでいることを、誰かから知らされていた。ただ、
「申し訳ありませんでした」
 と言って、こうべを垂れることしかできない私に、父親は静かな口調で病室から出てくれと言った。父親の目も母親の目も静かに澄んでいた。悲しみの色も、怒りの色さえ浮かべることができないほどに、彼らは衝撃をうけ、打ちひしがれていた。私は廊下に出た。謡子の亡骸と対面した両親が、物言わぬ謡子に、どの様にしてすがりついたのか、もう何も聞こえぬ謡子に何を言い、何と言って嘆き、そして泣いたのか、私は知らない。
 彼と、少し遅れて彼の両親が来たときも私は病室にいた。軽くウェーブのかかった柔らかい長髪を、額の真ん中で分けた長身の彼は、遅れて病室に入ってきた両親に向って、
「謡子ちゃんは、この人と一緒だったんだ。最近は」
 とあわて気味に話しはじめ、父親が何かを言ってその言葉をさえぎった。母親は、
「謡子ちゃんは、一人じゃなかったんでしょう。その時、あなたが横にいたんでしょう。一人じゃ淋しすぎるもの」
 と私に向けて言った。小肥りの父親は憎悪に燃える目で、無言で私をにらんでいた。私は、彼と彼の両親を残してまた病室を出た。
 ナースステーションに、両親、事務所の弁護士二人、そして私が入ると、昨日と同じように、二つのレントゲン写真が乗ったパネルの前に篠田医師がいて、説明を始めた。
「二度目にレントゲンを撮ると、肺炎はむしろ重くなっていました」
 昨日は、程度は変わっていないと言ったのにと私は思った。
「それで、昨日グロブリンという強い薬を使いました。今日からはまた、違う薬を使う予定でしたがね」
 昨日は三日間使うと言ったはずだという思いがよぎった。医者が責任を回避しようとしていることは明白だったが、しかし、そんなことはどうでもよかった。謡子はもういない。その事実だけが私を圧倒していた。それでも、
「一度も、危険だとも危ないとも言われなかったんですよ」
 やっとの思いで私がそう言うと、医者は、
「肺炎が重いとは言った」
 と言った。
「よほど強い悪性の菌だったのか」
 と、医者はなぜ謡子が死んだのか、はっきりと死因を言えなかった。しかし一人の弁護士が、
「薬の副作用の可能性は」
 と聞くと、即座に、
「ありません」
 と言った。もう一人の弁護士が、死因は肺炎による呼吸の停止なのかという意味の事を聞いた。篠田医師は、
「ええそうです。肺炎による換気不全という事になります」
 と答えた。
 母親は説明を聞いている事に耐えられず、途中で床に倒れた。誰かが人を呼び、あたふたと入ってきた女の人に抱えられるようにして部屋を出た。父親は一言も口を聞かず、黙って説明を聞いていた。篠田医師の説明に、その場で異議をはさむ者はいなかった。しかし一応の説明が終わり、私たちがナースステーションを出ると、謡子の上司でもある権藤弁護士は、私と父親を小さな部屋に連れていった。
「あの医者の説明はとても納得し難い。強く解剖を勧める」
 怒りを込めた口調で、権藤弁護士は父親と私の双方に向かって言った。
「皆さんがお怒りになるのはわかります。あの医者の説明がでたらめであることは、私にも妻にもわかります。しかし…」
 と言って、父親は絶句した。
「謡子は人一倍痛がりですから。人一倍痛がりの謡子に、このうえメスを入れるなど、私にはとてもできません」
 結局父親はそう言って、権藤弁護士の助言を断った。私には何も言うべき言葉はなかった。そしてそれ以降、謡子の死因への疑問は不問に付され、葬式の準備が事務所の人たちの手で進められることになった。
 私はあの時も、そして今でも、謡子の直接の死因は、篠田医師の言ったようなものではなく、何かの事故だったと思っている。十分ほど前まで看護婦と話していた者が、換気不全、つまり呼吸困難によって死んだとは思えない。謡子は病院の予測しない医療事故によって、死んだのだと思う。しかしもう一つのことがある。それは、私と再会してからの苦しみ、彼といた家を出て、しかし彼と決着を着ける事のできないでいる苦しみがなければ、謡子は死ななかったはずだということだ。
 あの時、なぜ謡子は肺炎になったのだろう。もちろん、無謀なほどに引き受けた仕事が、体力を奪ったことは確かだけれど、しかし、彼と私との板挟みの中で立ち往生していたことの心労が、病と無関係であったはずはない。謡子は十年を共にした彼を、切り捨てることのできる、強い心を持ってはいなかった。それなのに私は無意識のうちに、いや半ば意識的に問題を謡子に押しやっていた。謡子と再会した時に感じた自分自身の打算への、後ろめたさから逃れたいばかりに、彼との関係を決めるのは謡子の問題だという態度を取りつづけた。本当は泣きすがっても私のところに来て欲しかったのに、そうしなかったのもまた、結局は私のところに来てくれるだろうという、脳天気な打算のゆえだった。そうしたことがどれほど謡子を追い詰めていたのだろう。私の知らないところで、彼との電話で謡子は何を話していたのだろう。今となっては何も分からないし、分かったところでどうしようもないことだ。
「青木さん、形式の問題ですが決めねばならないことがあります。喪主は京極君ということでいいですね」
 謡子のものとは違う彼の姓を父親が言い、私は、
「結構です」
 と言った。
「謡子は花が好きだったから、花でいっぱいの葬式にしてやろうと思います」
 と父親が言った。
 私は謡子の枕元の折りたたみ椅子に、ずっと座り続けた。成田から南さんが来てくれた。私は立ち上がって病室の前の廊下で彼女を迎え、彼女は何も言わず、ただ私に抱きついて泣き、それから謡子の亡骸と対面した。南さんはそれから、私と代わる代わる謡子の枕元に居てくれた。時間の感覚がないのだが、もうだいぶ日が高くなったころだろう、何人かの看護婦さんが病室に来て、謡子の体を拭いてから、最後の化粧をしてくれた。そうして棺に入れられた謡子は、九ヵ月間暮らしたアパートからほど近い寺に運ばれた。
 その日の夜、通夜の晩、寺は私の知らない大勢の人々で溢れてごったがえしていた。昼間やってきて、そばに居てくれた弟が、お前ずっと寝てないんだろうと言い、自分のアパートに来るように言って、私たちは寺を出た。寝ていなかったことは事実だが、通夜の寺に私の居る場所はなかったから。
 アパートにつくと、弟はふだん寝ているベッドに私を寝かせて、自分は床に寝た。日が変る頃に寝た私は、午前二時に目が覚めると、謡子が苦しんでいた時の事が次々に思いだされ、なぜわかってやらなかったのかという思いが募って、もう眠れなかった。
 謡子の心が誰よりも弱く、体も丈夫でないことはわかっているつもりだった。謡子は私といると、しょっちゅう、
「私を守ってね」
 と言った。そして、
「青木君と居るとほんとうに楽だ。こんなに楽でいいのかと思うくらい」
 とも言った。私はそう言われるといつも幸せな気分になった。そして、一生、謡子を守ってやることができると思っていた。しかし私は謡子の信頼を、決定的な場面で裏切った。大変な苦しみと闘っているその時に、ずっと側にいながら何もしなかった。人間がこんなにも弱いものであるということを、私は謡子の呼吸が止まるその瞬間まで、本当は何も知らなかったのだ。私は自分が人一倍強い心と体を持ちながら、誰よりも弱い謡子のことをわかっているつもりでいた。謡子が死んでもうどうしようもなくなって、初めてその考えがいかに甘いものだったのかを知った。
 明け方突然激しい雨が降り、漆黒の冬の空に稲妻が走って激しい雷鳴が轟いた。「強い者は弱い者を守ることができる」という、不遜な考えを持ち続けてきた私に、今、天に昇りつつある謡子が号々たる非難の声を発している。雷鳴は私にはそう聞こえた。雷鳴が撃っているものは私にとどまらず、それは最後まで柔和な弱い心で外界と接し続けた謡子を、圧迫し、傷つけ、苦しみの中に生を断たせたすべてのもの、社会の一切、世界の一切に対する轟然たる抗議の声のようにも聞こえた。世界中で一番弱かった謡子は、天に昇る瞬間にもっとも強いものに転化して、世界に対する絶対的な抗議の声を上げていた。

 次の日、父親の願ったとおり、葬式の祭壇は白い花輪とたくさんの花束で埋めつくされていた。祭壇の前で父親が、
「青木さん、棺の中に入れてやりたい物はありますか」
 と聞いた。私はしばらく考えて、謡子のアパートに去年のクリスマスプレゼントがあるはずだと思いあたった。
「アパートにイヤリングがあると思いますから」
 そうことわって寺からアパートに向かった。一度大通りに出て、そして大通りからの路地を抜けてアパートに行き、鍵を開けて部屋に入った。謡子が小物をしまっておきそうな所を探して、赤い大ぶりなイヤリングを見つけ出すと、ポケットに入れて寺に戻った。
 祭壇に向って僧侶が経を読み続け、葬式は形どおり進行していったが、今から思うと、事情を知る者からすれば、それはずいぶん奇妙な葬式だった。喪主となった彼と彼の両親と並んで、私も祭壇の前にずっと座っていたのだから。しかし、その時はそんなことは思い浮かびもせず、私はただ呆然と棺を眺め続け、そして棺を取り巻くたくさんの花輪に、私でも知っている高名な作家や学者の名を書いた札が下がっているのを、眺めるともなく眺めていた。黒ぐろと太い字で送り主が大署された花輪に混じって、一つの札に細かな文字で五人ほどの名が、小さく連署された札のついた花輪が幾つかあった。仲間たちが金を出しあって送ってくれた花輪だった。次々と焼香を続ける人々の間に、新橋要員機動センターの仲間たちの顔がちらちらと見えた。
 僧侶が読経を終え、さらに幾つかの儀式が手際よく済むと、葬儀屋が、棺に花を投じて最後の別れをするようにうながした。白い花を投げ入れる多くの人々に混じって、父親や母親や、謡子に近い人々が幾つかの品物を棺の中に入れた。私は、もう鼓動を停止してからまる一日半が経過し、棺の中のドライアイスに冷やされて、蝋色になりつつある謡子の顔を見た。
 花に覆われて埋もれている謡子の顔を抱こうとすると、もうそれは冷たく固く私の手に抵抗する。少し離れたところにいた父親が、いたたまれないように、
「無理にしてやらなくとも結構ですから」
 と言ったのだが、私は手に力を入れて謡子の顔を持ち上げ、白い花の中から耳を露出させると、イヤリングを両方の耳に着けてやった。思いもかけずパリブランドを贈られて、子供のように喜んでくれた赤いイヤリングを着けてやると、なぜか気持ちが落ち着いて行った。
 棺の蓋が閉じられ、火葬場へ向かうために霊柩車に乗せられた。
「青木さん、葬式の後で青木さんの仲間もいれて話をしたいのですが」
 父親が近づいてきて言った。私は葬式に来てくれた仲間に、何人か残ってくれ、場所を取っておいてくれと頼んでから、ねずみ色のマイクロバスに乗った。彼と居た家を出てから九ヵ月、結局謡子は、新しく住んだアパートの前にある火葬場で、焼かれることになったのだった。ステンレス製のレールの上に乗せられた棺が釜の中に滑っていくと、厚くて重い耐火煉瓦の扉が閉められて、謡子は灰になっていった。その数時間を、人々は敷地の反対側にある待合室で、茶をすすりながら待った。私の前に座った中年の女が、
「謡子ちゃんは、本当に夢の夢子さんでしたからねえ。最後までそうだったんでしょうね」
 と黙りこくる人々の誰へともなく言い、私の方を見て、
「どちらの方ですか」
 と身を乗り出すようにしながら小さな声で聞いた。私は、
「看病していて、最後に一緒に居たものです」
 とこたえた。
 結局、新橋要員機動センターの仲間たちは、謡子が骨となって帰ってくるまでの数時間を、寺の前に立ち尽くして待っていてくれた。誰かが寺に上がって休むように言ってくれたのだが、弁護士事務所の同僚たちと父親の同僚たち、そして彼の家族のいる部屋はいかにも仲間たちには場違いで、居心地が悪かったのだ。
 父親は、自分よりも先に逝った娘の野辺の送りはかなわず、寺でじっと待っていた。骨になった謡子が寺に帰ったとき、遺品となった謡子の真っ赤な厚いコートを肩に羽織って、車から舞うように降りたった母親のふるまいは、気が狂れた者の動作のように見えた。父親は火葬場まで行ってくれた人々にあいさつをすますと、私のそばに来て、
「それでは行きましょうか」
 とうながした。私は寺の前で待ち続けてくれた仲間たちに礼を言い、父親と仲間たちと共に歩きだした。
 新宿に出る地下鉄の中で父親が言った。
「あなたのことは知りませんでした。知りませんでしたが、京極君との生活が壊れていることはわかっていました。彼の方は、私が青木さんたちと寺を出たので驚いているかもしれませんが、私はかまいません」
 分会書記長の牧野が手配してくれた、歌舞伎町のすき焼き屋に入り、付き添ってきた学者仲間らしい若い同僚とともに、進められて一番奥の席に座った父親は、
「彼女は」
 と言って、しばらく息をつぎ、
「彼女は、自分のことをなかなか親には話してくれませんでした。青木さんや皆さんと一緒に居ることも、何も話してくれませんでした。どうぞ皆さんの話、皆さんといた謡子の話、私の知らない謡子の話を聞かせて下さい。突然いなくなってしまった謡子のかわりに」
 と言った。「突然…」というところで声が震えた。牧野が、
「この度は、とんだことになって。何と言えばいいか」
 とかたどおりの悔やみを言った上で、
「ご存知ないかもしれませんが、私たちはみな、人材活用センターという場所に入れられているんです」
 と言った。父親は人材活用センターの名と意味を、報道を通して知っていて、
「そうですか、皆さん苦労されているんですね」
 と言い、牧野は、
「まあ、そういう事になりますか。そんなでもないけど、なあ」
 と皆に同意を求めるように言った。
「俺たちの入れられている人材活用センターに、娘さんはよく来てたんですよ。一週間ほど前も来たよな。新橋駅から大通りを渡ってたら、後から走って追いかけてきてさ。あの時も、よく来るねって笑われてたよな」
 と根津が言った。発熱して、てっきり膀胱炎が再発したと思った日の前日だった。品川駅の臨時改札のところで、青木なら、今、仕事が終わって帰ったと言われて追いかけてきた。横断歩道のところで私たちに追い付いて、そのまま廃屋五階の詰所まで一緒に来てしばらくいたのが、私たちの職場に来た最後になった。
「偶然、勤めた事務所と俺たちの職場が、山手線の駅をはさんで反対側だったんで、仕事の合間やなんかによく来てたんです」
 と私が言うと、父親は、
「アイドルみたいだったんですね」
 と言った。私には皆が、それは少し違うなと感じたのがわかった。仲間たちが弁護士だという女を見る見かたには、やはり、アイドルとして囃したてる気楽さとは異質のものがあったから。しかし、誰かが気をきかせて、
「そうですよ」
 と父親に同意した。
「まあ、担当していた事件の被告たちのあいだでは、たしかにアイドルだったかもしれません。反日武装戦線の、平沼さんの事件のことを彼女は話していましたか」
 と私が聞くと、父親は、
「その事件を担当していたことは聞かされていました」
 と言った。
「平沼さんとは本当に仲が良かったんです。接見に行っても無駄話ばかりしてるって、いつも言ってましたから。平沼さんは、弁護士事務所への手紙を〈女神謡子〉様宛で送ってきました」
「そうですか」
 と言って、父親はため息を一つついた。
「彼女には弱いものに甘えるというところがあった」
 と不思議な事を言った。
「今日、お話していて学者だとかそういう人の中にも、俺たちの話を分ってくれる人がいると思えました」
 と牧野が言った。気をきかせているのだ。私は、
「俺は簡単にはそう言えません。たくさんの人が抵抗の姿勢をなくしていく中で、世間と折り合いを付けて、汚いものにまみれて生きるには弱すぎる心を守るために、すべての権威や権力に対して、突っ張って生きた謡子の居た場所に立っていたい」
 と言った。
「ありがとう」
 と言った父親の目が、一瞬光ったような気がした。
 仲間たちは、自分の知っている謡子のことを父親に話してやろうとして、父親はずっとそれを聞いていた。ようやく話がとぎれると、牧野が、
「それじゃあこの辺で」
 と言った。父親はレジで全員の払いを済ませると、私たちに向って丁寧に礼をした。私もまた、深々と礼を返す以外に何もする事はできなかった。
「それでは、私たちはここで失礼します。皆さん今日は本当にどうもありがとう」
 新宿駅東口の前で、父親は再び、小柄な体を折り曲げるようにして頭を下げた。よろめいた体を若い同僚が横から支えた。仲間たちは口々に、
「気を落とされませんように」
「失礼します」
 などとかたどおりのあいさつをすませた。
 父親たちが階段を降りていくか行かないかのうちに、私の背後で、
「フウー」
 という大きな溜め息が幾つも聞こえた。
「アー、苦しかった」
「親父が話したいって言うから、普通の田舎の親父だと思ってたのに」
「いや、肩凝った」
「喉がつまったままだ。これはもう一軒行かないとな」
 仲間たちは口々に言い、それから、私を引っ張るようにして、駅の裏手にある二軒目の飲み屋に連れていった。靴を脱いで畳の席に上がり込み、どっかり腰をおろすと、黒沢は、一軒目の雰囲気がよほど気詰まりだったのだろう、押し殺していた酔いが急に廻ってきたのか、
「だから、ああゆう連中は嫌いなんだ。何が、彼女は、だ。彼女はこう生きたとか、彼女はどうしたとか、こんなになって、まだ恰好つけて」
 ロレツの廻らなくなった口で大声を出した。
「まあ、ああいう人たちには、あの人たちの流儀があるんだよ」
 と根津が取りなすが、黒沢は、
「自分の娘が死んだらよう、親はよう、謡子ちゃん、謡子ちゃんってよう、ワーワー泣けばいいんだよお」
 とまたわめくように言った。気詰まりな様子は察していたが、これほどとは思わなかった私が、そうした仲間たちの様子を見ながら、
「本当は、俺はあの人たちとみんなの中間なんだよな」
 と言うと、完全に酔っぱらってしまった黒沢は、
「何言ってんだよ、あんたは俺たちの仲間じゃないか。そんな事を言って。逃げだそうたって許さないよ」
 と大声でまたわめいた。黒沢の酔っぱらっただみ声が心に染みてきたが、いつまでも酔いは廻ってこなかった。
 その日の夜、私は発熱した謡子を内藤病院に連れて行って以来、七日ぶりに自分のアパートに帰った。朝一番に診察してもらおうと、慌ただしく出かけたときのままの部屋だった。六畳間に二つ並べて敷いてある蒲団の枕元に、水を張ったボールと濡れたタオル、お盆の上には蜂蜜レモンを作るために絞ったレモン片と蜂蜜のビンとポット、そして体温計が出しっぱなしになっていた。体温計は八度五分で止っていた。謡子がこの部屋で最後に計った体温だった。私はそれらの物を片付け、そして躊躇した後で蒲団を一組だけ押入にしまい、それから残った蒲団に横になった。少し熱があった。

 次の日、私は謡子のアパートに行った。幾つか置いてある私の衣類や小物を、両親が部屋を引き払う前に片付けておきたかったのだ。地下鉄新高円寺の駅を降りて階段を昇り、何回となく通った路地を抜けてゆくと、左手にいつものとおり火葬場の、頑丈で巨大な煙突が見えてきた。初めて見たときから、見るたびに気味悪さを抑えられなかったその煙突から、結局謡子は煙となって天空に舞い上がったのだった。謡子が焼かれた耐火煉瓦づくりの釜が思い出され、その日の煙突はやさしく何かを私に語りかけけくるように思え、親しみを込めて私の心の中に入り込んでくるのだった。謡子が焼かれた釜のなかに、私も心地よく入ってしまいたいという気持ちが沸くと、次の瞬間、私がどれほど謡子を愛していたのか、私がどれだけ謡子を必要としていたのか、そのことが鮮明に意識され、ぐずぐずと謡子に決断を押しつけてきたことが、どれほどの間違いであったのか、瞬間のうちにそれをさとるのだった。温かくやさしく、私に何かを訴えかけてくる火葬場の煙突を見ながら、私は次から次に流れ落ちる涙で、顔をぐしゃぐしゃにしたまま歩いていた。その日を最後に、私はそこに行ったことはない。
 謡子が死んでから五日目に、私は新橋要員機動センターに出勤した。仲間たちは口々に「ずっと休んでいろ」と言ってくれたが、一人でアパートに居ることは、とても耐えられなかった。予備の勤務にしてもらい、ボーっとしながら、俺は恋人も職場もそして希望の一切も、一まとめにして無くしてしまうのだろうかと考え続けて、八六年の師走は暮れた。

     それから

 年が明けて一九八七年がやってきて、国鉄の分割民営化まであと三ヵ月足らずとなっても、意外な事に、汐留貨物駅の廃屋を清算事業団の収容施設に作り替える工事は始らなかった。国鉄を六つの旅客会社と一つの貨物会社その他に分割するという計画の中で、どうも本州の各社では、働き続けることを希望した人数が、国会の決めた定員を割り込んでいるようだという情報が、組合の上部から伝わってきた。
「希望退職した者、公務員その他に転職した者などの数を合計して、従来の要員数から引くと、本州各社では、希望した者の数が国鉄改革法の定めた定員を割り込んでいることは確実となった。本部は、希望者が定員に満たない以上、組合別の差別はしないという国会での付帯決議を根拠として、国労組合員全員の採用を本社に要求している」
 新年の旗開きを兼ねた全体集会で、三木が情勢報告をすると、
「本当かよ、それ。いつでも情勢認識が甘いからなあ、本部は」
 と、西崎は本部の情勢分析を信用できないようだったが、
「これで俺たちが採用されたら、結局、抵抗するのが一番いいってことになるわけだ」
 と金森は言った。三十万人から二十万人へ、一年間で十万人の人間をふるいにかけることと、国鉄労働組合をつぶすことだけに、全精力を注いだ政府と国鉄当局のやり方は余りに醜かったから、皮肉な事に、とことん抵抗してやると心に決めた人間ではなく、どちらとも決めかねていた労働者、国鉄当局側についた労働者の方が、出向、一時帰休、希望退職という当局の政策に大量に応募することになったのだった。
「それでも、こいつらだけは許さないって言うのがあるんじゃないの」
 と誰かが言った。どうなるのかまったく分らないまま、私たちは、JRという妙な横文字で呼ばれることになる、新会社への採否が通知される日を迎えた。
 一九八七年二月十六日、全国の国鉄の職場では、各現場長からすべての労働者にJR各社への採否が通知された。雇用情勢が悪いために、採用を希望する者が定員枠を大きく上回った北海道と九州を中心に、七千五百人の労働者がJRへの採用を拒否されて、国鉄清算事業団の収容施設行きを命じられた。そのほとんどが国労組合員であり、唯一国労組合員である事を理由とした採用拒否であった。
 新橋要員機動センターでは、その日、職場にいた者は次々と所長室に呼び込まれて、新会社への採用通知を渡された。応援にでていた者にも、管理者が出向いて、ザラ半紙半分の採用通知を渡して回った。助勤先の駅の改札口にいた私のところに、その駅の助役が寄ってきて、
「機動センターから所長がみえてます。私が交代しますから駅長室に行って下さい」
 と言い、パンチを助役に渡して駅長室に行くと、中に住田所長と海野助役がいた。私の顔を見て二人はソファーから立ち上がり、海野助役が、
「辞令を持ってきました」
 と言って、手真似で私を呼び寄せた。私は無言のまま二人の前に立った。
「青木君、おめでとうございます」
 と所長が言い、固い表情のままでJR東日本への採用通知を手渡した。「おめでとう」とは、最後まで皮肉を言うなと思いながら、私は無表情で採用通知を受け取った。
 管理局の人事課員が「あいつらだけは、絶対首にしてやる」と息まいた、新橋要員機動センターの労働者は、当の本人たちが希望退職の募集に精を出しすぎたおかげで、狙いどおりに首にする事ができなかった。しかし、四十人のうち二人がJRへの採用を拒否されて清算事業団行きの辞令を出された。怒りの余り点呼で暴れようとした沖田と、新橋要員機動センターに来る前の職場で、管理者に楯突いたとして、停職処分を受けていた仲間だった。清算事業団への辞令とは、三年間の猶予付の首切り通告だった。政府はそのあいだに再就職先を見つけろと言い、国労は清算事業団に回された組合員のJR採用を要求して、闘い続ける構えを見せていた。もう一人の仲間から、清算事業団で闘い続けようと誘われて、沖田は迷ったけれど、結局これを機会に田舎に帰るという結論を出し、退職願いを出して九州に帰っていった。

 二月十六日に新会社の採用通知を受け取った者のうち、二人が辞めていった。金と権力の丸岡に泣かされた青年部長の佐伯は、
「JRになっても、結局ずっと差別されたままじゃ、自分の力が生かせる、やりたい仕事にはつけないから」
 と言って辞めた。新橋要員機動センターにいる間に彼女を見つけて結婚した堀之内は、真新しい女房から、「ほかの人の半分しか給料が上がらない会社なんか絶対辞めて」と迫られて、新しい就職口を見つけて来た。処分処分の連続で、ここ数年間、新橋要員機動センターの労働者の昇給は、いつも規定の半分しかなかったのだ。
 採用された三十六人の仲間のうち、駅に発令されて本来の仕事を与えられたのはただの一人もいなかった。私たちは相変らず、「余剰人員対策」のために、JR発足と同時に新設された駅の直営売店や飲食店、駅の自動販売機に缶ジュースを入れて回る仕事、そして採用とは名ばかりで、駅の清掃を受け持つ下請け会社への、二年間の出向を命じられた者に振り分けられたのだった。
 清掃会社への出向を命じられた岩倉が、最後に辞めていった。
「二年間の我慢じゃないかって、だいぶ長いあいだ話したんだけど、やっぱり神田のホームで掃除するのは耐えられないって言うんだよな」
 もう三月も半ば過ぎのある日、やはり清掃会社への出向を命じられたもう一人がそう言った。
「神田駅っていうのはひど過ぎるよな」
 と誰かが言った。神田駅のホームは岩倉が新橋要員機動センターに来る前に働いていた職場だった。分割民営化に反対するワッペンを胸からはずさなかったために、要員機動センターに飛ばされたそのとき、頭を下げてワッペンをはずした人間、結局その後、国労をやめて御用組合に鞍替えしたかつての同僚たちが働いている神田駅のホームに、清掃会社から派遣される形で働きに行くのが、どうしても耐えられなかったのだ。
 国労が団交の席で、清掃会社への出向は退職に追い込むための嫌がらせだと追及し、当局側の交渉担当者が「職業に貴賤はないでしょう」と言い放ったと聞いたとき感じた、目眩のするほどの怒りを私は忘れることができない。青いプラスチックの大きな籠を引いて、駅のホームや階段や便所を掃除する、多くが年配の労働者の置かれている立場、世間の見る目、世間の評価を十分こころえ、自分自身が心の底からそれらの人々を差別し、蔑んでおきながら、「職業に貴賤はない」と言い放ち、意向に従わぬ青年に出向を命じて退職に追い込み、他人の人生を左右できる権力に酔い痴れている、そういうやつの言葉を、じかに聞いたならば、私もまた、立ち上がって折り畳み椅子を振り上げたくなる衝動を、抑えることができないかもしれないと、今でも思う。

 もう国鉄の解体される日まで、数えるほどになったある日、珍しく廃屋五階の詰所の中には、私一人しかいなかった。穏やかな春の日差しがガラス窓を通して差し込んでいた。思い切ってすべての窓を開け放つと、まだ冷たい春の風が、誰もいないがらんとした詰所の中に吹き込んできた。上半身で風を受けながら窓辺に立つと、無人の構内をはさんで、向い側の高いところを横切っている首都高速から、乗用車やトラックの微かな騒音が聞こえ、さらに、そのむこうにある浜離宮の木々が、もう淡い緑色に芽吹いていた。私は風に吹かれながら、ふわふわと柔らかな、淡緑色の木々のあたりをしばらく見ていた。ガラガラと音がして後ろで引戸が開いた。
「うわ、何だ」
 という谷の声がした。
「青木さん。何てことしてるんだよ。窓閉めてよ、窓」
 振り返ってみると、昼飯の材料を買いに出ていた谷と根津が袋を下げて立っていた。窓からの風が開いた引戸を通して吹き抜けて、細身の谷の長めの髪をなびかせていた。谷は持っていた袋を床に置くと、窓を閉めて回りながら、
「何やらかすか分からないよな。この人は」
 と言い、私は、
「気持ちいいじゃないか。二、三枚は開けといてくれよ」
 と言ったが、もう、ほとんどのガラス窓を閉め終えた谷は、
「そんな所でボッと立ってないでよ。飯研いだ? 他にもすることあるからね」
 と食事の仕度を手伝うように言った。
「まあ、少し外を見てみろよ。この風景も、もう見納めなんだからな」
「飽きるほど見てきたろう、二年間よう。外見てても飯はできないんだぞ」
 と谷は言ったが、窓際に近づいてきた根津は外を見ながら、
「そうだよな。もう見られなくなるんだな、この風景」
 と言った。根津の視線は遠くから、しだいに下の方へと落ちていき、ついこのあいだまで引き込み線が覆っていた、今は、だだっ広いだけの空間に向いて止まった。詰所の窓の外に見える風景も、私たちが収容されている二年の間に微妙に変化していた。二年前われわれが隔離されたとき、まだ日に何度か見ることのできた貨車の入れ換え作業は、駅の全面廃止とともになくなったが、レールが構内を扇のようなかたちで覆う貨物駅の風景は残った。しかし、錆びついてしまった引き込み線を取り外す工事が少し前から始まっていて、旧汐留貨物駅の構内は、土の剥き出しになった、ただの空き地に変わりつつあった。国鉄の生み出した膨大な赤字の、形$かた$に取られた一等地を売り払う準備の工事だった。
「線路、もうほとんど外されちゃったな」
 と私が言うと、
「そうですね」
 と根津は感慨深げに言って、
「汐留駅で働いていたやつら、こんなところ見て、泣いてるだろうな」
 と続けた。自分自身が追い出されてきた、新鶴見操車場のことを考えているのは明らかだった。しばらく窓の外を見ていた根津が、
「何でね、こんな高いところから、汐留駅の残骸を見る羽目になったんだろうと、思ったこともあったんですよ、実は俺。でも、もう見納めかと思うと、妙な気分になりますね」
 そう言うと、谷が、
「機動センターに慣れちゃったんだよな、俺たち。それによう、結構忘れられない経験もしたからな」
 と珍しく神妙なことを言った。根津が言った。
「信号係の試験の前、泊まりの日に二時まで話したの、覚えてます」
「そりゃ覚えてるよ。あの時結局、根津が、分かりました、ワッペンははずしませんって言ったから、こんな高いところに来る羽目になったんだからな」
 と私は言った。
 要員削減が実施されて、新橋駅で私たちの担当していた仕事がなくなったとき、仕事にあぶれることになった若手を対象にした昇進試験が行われた。新しい仕事につけるかどうかを決める試験の合否に、成績はまったく関係なかった。国労の言うことを聞くか、当局の言うことを聞くか、ただそれだけが判断の材料になった。沖田はあまり悩んだ様子はなかったが、信号係の試験を前に、悩んでいた根津と、私は終電が行った後の仮眠時間に午前二時過ぎまで話し込んで、分割民営化反対と書いたワッペンをはずすことを思いとどまらせたのだ。
「信号係なら操車場でも見てきた仕事だし、それに客扱いじゃないからね。いいかなって思ったんだよ」
「でも結局、根津さんなら、どの道に進んでも機動センターに回ってきたさ」
 と谷が言った。
「それは違うよ」
 と根津は言い、私も、
「それは違う」
 と言った。根津が言った。
「でもね、ここに来たことが間違いだとは思わないしね。それにまだ勝負は続いてるんだから」
「ああ、そうだ」
 と私は答えた。根津が言った。
「九州に帰る一週間ほど前かな、沖田と飲んだときに、何て言ったと思います。この二年間ほど楽しいことはなかった。田舎に帰っても、機動センターのことは一生忘れないって、そう言ったんですよ。変だよね」
「そうだよな、一番苦しかったんだからな。でも沖田がそう言う気持ちは、よく分かるよな」
 と私は答えた。根津が言った。
「俺ね、今進んでいる道が間違っていると自分で思うまでは、この考えで人生を進むつもりですから」
「そうだな」
 と少しだけ大きな声で私は答えた。
 四月一日から、根津は「どんぶりっ子」という名のどんぶり飯屋、谷は「旅路」という名のパンとコーヒーの店、私はホームの売店で働くように辞令が出ていた。どれも山手線の駅に新設される、「余剰人員対策」のJR直営店だった。
「ほかの連中、どこ行っちゃったんだ。もう作りはじめないと昼飯食えないぞ」
 と谷が言った。
「ここで飯作るのも、もう何回もないよな。気合入れて作るか」
 そう言うと、根津は窓際を離れて流しの前に立った。

     *

 こうして私たちの闘いは一つの結論に到達したが、それは余儀なくされた新しい闘いの始まりでもあった。JR採用を拒否された二人のうち、清算事業団で闘い続けることを決意した一人は、北海道や九州の人々とともに、不当解雇撤回と現職復帰の闘いを開始した。そして、採用はされたものの、相変らず、差別され排除され続けている他の者たちもまた、さらに困難な中で働き、闘い、そして生きていかねばならなかった。
 新聞記者の岸が、私のアパートに、突然電話をかけてきたのは、国鉄がJR各社に分割民営化されてから何年も後のことだった。岸はまず、謡子の葬式には参列したが声をかける機会を逸したことと、横浜駅のアノラック事件のとき、力になれなかったことを詫びたあとで、
「青木さんのことが、ずっと気になっていたんです。お仕事はどうされているのですか」
 と聞いてきた。私が山手線のある駅の売店にいるのだというというと、
「そうですか。売店ですか」
 と低い声で言ってから、一度会って話がしたいと言った。私たちは、何日か後の夕刻、以前に会ったことのある、銀座のビアホールの丸いテーブルをはさんで座っていた。
「世間では、駅の便所がきれいになったとか、駅員の愛想がよくなったとか、もうそんなことしか考えてないみたいですけどね、青木さんが売店にいると聞いて、いろいろ話には聞いてたけど、衝撃を受けましたわ。国労組合員のことは、絶対書かなきゃいかんのですけど…、うちの社でももう追いかけている者も形だけで。ほら、アノラックのときに、朝の点呼に突入して取材しろって言ったら、びびったやついたでしょう、あいつなんかもう、国鉄問題で国労から話を聞いてくれっていっても、知らぬふりをきめこみやがって…」
 以前会ったときと同じ不揃いの髭づらに、これも同じような擦り切れた背広を着て、こちらに話をさせないのも以前のときと同様で、岸は、自分の勤める全国紙の悪口をなかなかやめようとしなかった。仕事帰りのサラリーマンや若いOLで、ほぼテーブルの埋まった店内は騒々しくて、岸は大きな声で話つづける。フリルのついた白いエプロンをした、二十才くらいのウエイトレスが、泡の盛り上がったガラスのジョッキを二つ運んできた。岸はつまみのソーセージとサワークラウトを注文すると、
「さあ、飲みましょう」
 といって、ジョッキの一つを私の方に押し出した。岸はジョッキをかかげて私の方をむき、
「なんて言うのかな、そう、再会を祝して」
 と言いながら、私が手に持ったジョッキに軽くぶつけるしぐさをした後で、ビールを流し込んだ。岸に続いてジョッキを傾けると、騒音と熱気であぶられた私の喉にも、ビールの気泡のはじける感触が広がった。
「電話でも言いましたが、青木さんのことがずっと気になっていたんです。仁科謡子さんのことがあって、それからどうされているんだろう。仕事は続けているのだろうかって」
「どうも、覚えていただいていて光栄です」
 と私は言った。
「あたりまえです。闘い続ける労働者がいるということを、忘れるわけがない。迫害を受けている人々、迫害と闘う人々、そうした人々のことを紙面に載せるために、私は新聞社にいるんですよ」
 と岸は憤慨したように言った。ここのソーセージはなかなかうまいからと食べるように言い、自分も一本にかぶりついた後で、言葉を続けた。
「国労組合員はみな、青木さんと同じような扱いされてるんでしょう」
「ええ。ご存知でしょうが、清算事業団に送られたあと、結局解雇され、アルバイトしながらJR復帰を要求してる千四十七人は別にしても、私みたいに、採用されても本来の仕事から外されている者が何割かはいます。鉄道部門にいる者も、昇進試験にはまず受かりませんし」
 岸はさらに、今、組合員は何人いるのかと聞き、三万人だと答えると、
「そうですか、まだ三万人も残ってるんですか、そんなに差別されているのに。たいしたものですね、国労はやっぱり。苦しい闘いだろうに」
 と大仰に驚いて見せた。
「苦しいかと聞かれたら、まあそうですけど、でも、自然の流れでこうなったというところがありますから、組合員にとっては」
 岸の感心するようすに違和感を感じた私がそう答えると、岸は、
「そう、自然の流れでね。そう言えるところが、強いんだな」
 とさらに感心して見せたのが、ふと、めがねの奥に暗い影をよぎらせ、目をしばたかせながら言った。
「でも、青木さんにとっては違うでしょう」
 それまでの調子とは質の違う声だった。真剣なまなざしが私の目を見ていた。
「そうですね。私にとってはね」
 と私は答えた。毎日々々ガムや新聞を売り続ける生活が、もう五年近くも続いていた。俺はいったいいつまでこの生活を続けるのだろう、そう思うことがないといえば嘘だった。国鉄当局と政府からJR各社の経営陣へ、国労を抑圧し、封じ込めている勢力の名は変わったが、奴らのやり口はあい変わらずで、彼らの包囲網を食い破る見通しはたたなかった。おまえはなぜそこにそうしているのか。おまえはおまえの人生を納得しているのか。おまえはどこに行こうとしているのか。岸の目はそう問うていたが、私は岸が満足するような答えを持っていなかった。
「そうですね。私が国労にいて、そして売店でガムや新聞を売っている、そのことを自分自身で受け入れているやり方は、仲間たちの流儀とは違います。でも、それが、私にとっては自然の流れの結果であることも確かですから」
「青木さんは労働者の闘いにこそ未来があると考えて国鉄に入り、国労の闘いに参加した。その考えは変わらない。そのために売店にいて闘っていると、そういうわけですか」
「そう言ってしまうと、もう、今では違うんじゃないかな」
 と私は答えた。岸はわからないという表情をして首を振った。
「違うんですか」
「自分の人生が意味あるものだと納得する、それは、結局自分自身の心が決めることで、理屈や論理で裏打ちすることはできないと、今では思うのです。分割民営化の苦しい時期を一緒に闘った仲間たちと、職場こそ離れ離れになった今でも、私の心は共にありますし、年に何度か集まっては酒を飲む、その楽しみは何にも代えがたいのだから、これでいいのだと、私は思うことにしています」
「闘いの展望などいらないと」
「そうは言いませんけど。もちろん、差別をなくし、失った労働条件と名誉を回復するまで、闘いたいと思いますが…」
 私は言いよどんだ。私がなぜここにいるのか、最初からの私を知っていた、そして、そうした私と一緒にいてくれた、謡子さえ生きていたらという思いが沸き、私は顔を歪めた。私が、驕りと逡巡の双方によって失ってしまった女、人間がいかに弱い存在であるかを、死をもって私に教えた女、弱き人の優しさを失うことなく、人間は闘い続けることができるのかと、自らの死を持って深く私に問いかけた女の顔が浮かんだ。
 岸が、何か意を決したような顔つきをして言った。
「私の話を聞いていただけますか」
「喜んで」
 と私は答えた。
「いい学校へ行くこと、社会に出てエリートをめざすことを当然だと教えたあの中学校の教師たちに、真っ向から反対できたのは青木さん一人でした。だから青木さんのことはよく覚えてましたし、ベ平連に出入りして、ベトナム戦争や安保のことを熱っぽく語る仁科謡子さんや貝塚圭子さんには、何かそこにいるだけで光っているような、そんな雰囲気がありました。以前、仁科さんが私のことを、窓から飛び降りて見せる子と言ったとおっしゃいましたね。俺はなぜ光らないんだろう、光りたいという衝動が、そんなことをさせたんです。でも、私は中途半端です。大学に入ってからも、夜中、構内にバイクで乗り入れて、校舎にペンキをぶちまけて回るというような、そんなことばかりしてましたが、結局、卒業して新聞社にはいりましたし…。そんな学生だった私を、採用してくれたことには感謝してますが、でも、今の社では書きたいことは書けません。しょっちゅうデスクと喧嘩しますが、書けなくなってる、どんどん。けれど、私には決定的な喧嘩をする勇気がないし、仮に新聞社を飛び出してもどうなるものでもないという気もする。展望がないということは、苦しいことです」
「岸さんは、何を書きたいんですか」
 と私は聞いた。
「差別です」
 と断定的にこたえてから、岸は、吐き出しにくいものを吐き出すような、苦しそうな顔つきをして、再び話しはじめた。
「あの中学校の生徒は、だいたいが、いいとこの坊ちゃんかお嬢ちゃんでしたが、私の家は銅を扱う地金屋でした。壊れた機械から銅線を取り出して売る商売をしながら、父親は無理をしてあの中学校に入れてくれた。でも、わたしは家業にずっとコンプレックスを持っていました。目立ちたがり屋の変な子の正体は、そのコンプレックスです。だから、差別について、私は否応なく考え続けてきたんです。今の日本は差別社会です。差別が社会を覆い尽くしている。青木さんに言っても釈迦に説法ですけど、部落差別や在日朝鮮人・中国人への差別、女への差別、そして、日本とアジアの国と国との間の差別、もちろん企業にさからう労働者への差別。差別と闘う人々のことを追い続け、書き続けていくつもりで、今の社に入った。けれども…」
 そこまで言って、岸はまた沈黙した。
「苦しいでしょうが、飛び出すようなことはせず、ぜひとも新聞社の中でがんばってください」
 と私は言った。
「当分そのつもりですが」
 と岸は答えた。
「青木さんたちは、差別社会の階段を上ることを拒否して、差別された人々、抑えつけられた人々の闘いに参加した。そして、差別や抑圧や暴力のない新しい社会をめざした。そうですよね」
「ええ、そうです。でも私たちの方法は、果たして正しかったのでしょうか」
「絶対に正しかったと、私は思います」
 と、岸はテーブルから身を乗り出すようにして言った。
「岸さんがそうおっしゃるのなら、やはり、間違ってなかったのかもしれませんね」
 とわたしは思わず笑顔でこたえた。
「からかわないでください」
 と岸が言った。
「いいえ、からかってなどいません」
 とこたえてから、私は話し続けた。
「私たちが中学生だったころ、たくさんの学生や青年が、自由で平等なもう一つの世界を求めて、多くの国で反乱に参加したのは間違いない。いちばん若い世代だった私は、その後、国鉄に入り、国労のなかで闘い続けようとしてきました。そして国労はもう十年以上も、潰されずに闘い続けています。自分たちがつくりあげてきた、鉄道の中のもう一つの世界、労働者の世界を守るために。これもまた間違いない。けれど、人間の行為の当否がもし判断できるものなら、それは結局、その行為の結果が社会の中に根づいていくのか、後の世代にも引き継がれていくのか、そこで計るしかないでしょう。だから、私の個人的な闘いも国労の闘いも、岸さんのように理解してくれる人が、これからも生まれてくるかどうか、そこにかかっているのではないですか。だから私は、岸さんには、ぜひ新聞社のなかでがんばり続けてほしいと思います」
 岸は返答をしなかった。周りのテーブルから、人々の喧騒が、沈黙して顔を見合わせている私たち二人の席に押し寄せてきた。目線をはずさずに岸が言った。
「仁科謡子さんと青木さん、それに私の三人で、酒を飲みたかったですね」
「そうですね」
 と私はこたえた。目蓋の裏が赤く、熱くなるのがわかった。私の顔つきが変わったことに気がついたのだろう。岸は微かにうろたえたような表情を見せて目線を下に向け、空になった自分のジョッキをくるっと一度、目線の先でまわしてから言った。
「よかったらもう一軒行きませんか、少し歩きますけど。静かな店を知ってますから」
「いいですよ」
 と私はこたえた。
「じゃあ行きましょう」
 と岸は言い、テーブルの上の伝票を奪い取るようにして立ち上がり、私も岸に続いて立ち上がった。
 有楽町駅から新橋駅の方向へ、山手線のガード下の暗い道を岸と並んで歩きながら、私は近いうちに一度、仲間たちの集まりに岸を誘おうかと考えていた。「余剰人員職場」の直営店で働いているうちに、すっかり、どんぶり飯屋の調理場の白い服が板につき、最近では顔を見るたび、「このごろ青木さんちょっと丸くなりすぎたんじゃない。ちゃんと権利を主張して闘ってるか」などと、私のことを意見するようになった根津の顔、神田駅の清掃会社に出向するのがいやで退職し、バスの運転手になってからも、集まりがあれば顔を出し、相変わらず、「声が甲高いんだよ。うるさいぞ、岩$がん$」などとからかわれている岩倉の顔、客の来ない駅のパン屋が廃止になって、これも直営のショットバーへ行き、そこも廃止で、結局、機動センターに戻されてブーブー言ってる谷の顔、そんな谷に向かって、「俺たちの双六には、振り出しに戻る、はあるけど、上がりはないんだよ」などと、皮肉な軽口をたたいていた、ずっと機動センター暮らしの黒沢の顔、最近では組合運動がお留守になって登山にひたり、「元強硬派で、現登山派」だと誰かにからかわれた、ジュースの配送をやっている金森の顔、転勤になった別の機動センターでも分会の書記長となり、会議だ動員だと、相変わらず忙しい毎日を送っている、分会長だった三木の顔、仲間たちのさまざまな顔が、酔いの回った私の脳裏に浮かんできた。

(了)