大和田幸治さん、和田弘子さんと、私  (html版)

2012/11/15

 駅での泊まり勤務の日、休憩時間に、マナーモードにしてある携帯電話をポケットから取り出して見ると不在着信が一件あった。誰だろうと思って履歴を見ると、大阪で国鉄臨時職員の解雇撤回闘争を闘っている和田弘子さんの連れ合いからだった。
 交渉か裁判で東京に出てくるのかなと思いながら電話をかけると、和田通郎さんは予想外のことを言った。
「実は、先日大和田幸治さんが亡くなりました。すでにお葬式もすんでいるのですが、お知らせした方がいいと思いまして」
 大和田さんは八十代半ばになるはずだから、私はいつかこういう日が来るだろうと思っていた。そして、その前に一度はゆっくりお話をうかがいたいと思っていたが、ついにその日が来なかったことに動揺した。
「お年でしたからね。いつかこういう日が来てもおかしくないと思っては居たのですが…」と私が言うと、和田さんは、
「大和田さんは最後まで闘いの現場にたち続けていました」と言った。私は、大和田幸治さんなら間違いなくそうだろうと思った。そして、
「私にとってはあこがれの人でした。出来たら一度ゆっくりお話をうかがいたかったのですが」と言った。
 和田さんは黙っていたが、ひょっとしたら「あこがれの人」という私の言い方を変に思ったかもしれない。大和田さんは労働運動の活動家の間では大変有名な人だったが、何と言っても大阪の金属労働運動の重鎮であったし、私はずっと東京の国鉄労働組合員だったから、接点は限られていたのだ。それに、「あこがれの人」などという浮ついた言葉は、五十代半ばを過ぎた中年男が使うにはあまりふさわしくない。
 しかし四十年近くのあいだ、私にとって、確かに大和田幸治さんはあこがれの人だったのだ。

 一九七二年の九月から十二月までの短い間だったが、十八歳の私は大和田さんが組織した労働組合、総評全国金属港合同支部が活動する大阪港沿いの労働者街に住んでいたことがある。高校を三年生の秋に中退したばかりの私は、当時属していた新左翼党派の高校生担当の (注) オルグだった。環状線弁天町駅を降りると周辺にあったものと言えば、モルタル打ちっぱなしの灰色のビルと、ところどころデコボコに補修された黒いアスファルトの道路、それに、埃っぽい昼間の風に揺れていた、まだ灯の入らない一杯飲み屋の赤提灯くらいしか覚えていない。駅から南の方に少し歩いたところに運河があって、人の背よりも高いコンクリートの堤防で護岸され、リベットが等間隔に打ち込まれた鋼材を台形に組んだ橋が架かっていた。全金港合同支部の中心であり大和田さんの所属している田中機械の工場は運河沿いにあった。高いところを走る環状線の電車の窓から運河沿いにある工場の屋根の大きな「田中機械」という看板が見えた。私にとってその文字は、企業としての田中機械ではなく、闘う労働者の砦、全金港合同支部の拠点である田中機械を象徴しているように思えた。

(注) オルグ オルガナイザー。党派や労働組合で組織拡大を任務とする専従者

 「田中機械の八百人の労働者のうち、三百人は活動家だ」と言ったのは誰だっただろう。党派の古参メンバーだったかもしれない。今思えばそれは多分に誇張されていたのだろうが、しかし、田中機械支部を中心とする全金港合同は港の金属工場の中にいくつもの支部を組織し、全金を排除しようとする企業と御用組合の執拗な攻撃に対して、「企業内では少数でも地域では多数」という合い言葉のもと、企業を超えた合同労組の力、地域共闘の力で立ち向かい、果敢な反撃を組織していた。
 私が港に住んでいた頃、全金港合同支部は細川鉄工闘争に全力を注いでいた。労働組合を忌避した経営者は組合の分裂を仕掛け、少数派に転落した全金を締め上げるため、「特別防衛保障」(=特防)と呼ばれるやくざまがいのガードマンを導入して威圧した。港合同は「暴力ガードマン追放」をかかげて、一日も欠かさない昼休みデモで細川鉄工を包囲して闘い続けていた。私がデモに参加したのは確か一回だけだが、その時の光景を今でも鮮明に思い出すことが出来る。各工場の昼休み、全金の組合員が細川鉄工の工場前にやって来る。カーキ色の作業服を着た労働者は続々と集まって、赤い鉢巻きを締めてスクラムを組み工場前をデモ行進する。工場前の狭い道路はあふれんばかりの労働者で封鎖されたようになった。

 

(デモ行進する全金港合同支部の労働者 「労働情報」創刊準備号 1977/02/22)

 工場街にシュプレヒコールが響き渡る。
「全金は負けへんぞぉー!」
「労働者を舐めるなよー」
「暴力ガードマンを追放するぞー」
「港合同は地域共闘で闘うぞー」
 不当な扱いを受けている仲間を守るため、貴重な昼休みの休憩時間を割いて集まってきた労働者たちの関西弁のシュプレヒコールが、工場の中に閉じこもってしまった経営者たちに突き刺さる。
 私が「労働者階級の解放を通じた人間の解放」というマルクス主義の (注) テーゼに出会ってから三年が過ぎていた。闘う労働者が確かにここにいる。戦争や搾取や差別のないもう一つの世界、平和で自由で平等な世界への回廊を切り開く主体・労働者階級の隊列がここにいる。デモ隊の最後尾に連なりながら、まだ二十歳にならない私はそう確信していた。

(注) テーゼ  綱領的主張、基本方針

 思い違いがあるかもしれないが、大和田さんの演説を最初に聴いたのは港に住んでいた間のことだったと思う。
 ほかの多くの登壇者が、少し高揚気味のなめらかな語り口で聞き手を奮い立たせようとするのと違い、演壇に立った大和田さんは決して饒舌ではなく、ぎょろりとした目で会場を見回すと、終始同じ調子の関西なまりで淡々と、しかし重く決意のこもった報告をした。遠く仙台の地で孤立した闘いを余儀なくされていた全金の仲間が経営者の暴力的な支配に苦しめられていると指摘して、「地域に仲間のいない場所でえらい苦労をされています」と語り、地域での共闘こそが資本の包囲網を突破すると述べた。当時、中小金属の労働運動は西高東低と言われ、首都圏を凌駕する組織と運動で関経協(関西経営者協議会)と渡りあっているという自信が若い私にも伝わってきたのを覚えている。

 その後、私は党派を離れて東京に出てきて十九歳で国鉄に入った。一九七七年、全金や全港湾、全造船など総評左派と反戦青年委員会運動から成長した新左翼の労働運動が合流して生まれた第一回全国労働者討論集会が大阪南港で開かれたとき、主催者を代表して総括発言をした大和田さんの演説を、私は首都圏から参加した若い国労(国鉄労働組合)の仲間たちと一緒に聴いたが、すでにその時、南大阪の戦闘的な金属労働運動に手を焼いた大資本は、全金を封じ込めることの出来ない中小企業への発注を止めて、企業ごと兵糧責めにするという攻撃を開始していた。
 一九七九年一月、第三回全国労働者討論集会はそうした大資本の攻撃によって自己破産を強いられ、生産を放棄した経営者にかわって労働者が占拠・管理していた田中機械の工場で開催された。

 

(田中機械の構内に集まった労働者 「労働情報」1979/02/01)

 港にいたころ、私が労働者の砦、田中機械の象徴だと感じた、大きな看板を屋根に乗せた工場は倒産によって生産が止まりガランとした空間になっていた。そこに千を超える椅子が運び込まれて参加者が座った。演壇には「抵抗・自立・解放」と染め抜かれた田中機械支部の赤旗が掲げられていた。大荒れの天候で、吹き抜けの工場はブルーシートで外気と遮られていたがほとんど役に立たず、嵐と言ってもいいような北風がシートをバタバタ鳴らし、吹き込んできた風で凍るような寒さだったが、私も含めた参加者は闘いの確信に燃えていた。前年末、全逓は反マル生闘争ではじめて年賀を飛ばす闘いを展開していたし、沖電気では千五百人の指名解雇に対して三百人が争議団を結成して闘いに立ち上がっていた。全国労働者討論集会から生まれた運動誌、 (注) 「労働情報」には、全国各地で首切りや工場閉鎖と闘っている全造船の闘い、倒産に対して自主管理と自主生産を続けているカメラ工場の闘い、石川県七尾での火力発電所建設反対闘争など、様々な闘いが報告されていた。私たちは、新しい労働運動、体制を前提とした改良主義の労働運動ではなく、資本主義体制と激しく衝突し、資本主義体制を乗り越えることをめざす労働運動の出発点にいるのだと確信していた。そのとき、闘いの拠点、全金田中機械支部を守る決意を込めて、全国から結集した千五百人の労働者を前に、大和田さんは特別報告で「受けた支援は連帯で返す」「地域共闘と階級連帯の旗を掲げて前進する」と演説した。

(注) 労働情報  http://www.rodojoho.org

 しかし、その後の経過はあの日、集会に参加していたすべての人々の希望を裏切るものだった。日本の労働組合運動では、闘う労働運動のセンターであった総評が解体され、資本主義を擁護する連合がしだいに主導権をにぎっていくことになる。そしてこの過程は、意に添わない労働組合を国家権力が暴力的に解体していく過程でもあった。中曽根自民党政権が強行した国鉄分割・民営化の大きなねらいは、戦後、一貫して労働組合運動の中核であった国労を解体することだった。三十万人余りの国鉄職員のうち、新会社(JR)に採用される者は二十一万五千人と法律に明記され、三人に一人が職を失うと決められた。一九八六年には、「人材活用センター」と名付けられた収容所が全国に千四百カ所つくられて、職場を追われた国労組合員一万八千人が収容されたが、当時、山手線の駅で働いていた私もその一人だった。私はそこで様々な仲間たちと出会い、一生涯忘れることのできない経験をするのだが、それを書くことは (注) 別の物語になる。ただここでは、当時、「人材活用センター」に送られることは、翌年確実に解雇通告を受けることを意味していたこと、解雇の恫喝を背景に、国労からの脱退を強要されて百名とも二百名とも言われる国鉄労働者が自殺したことだけを書いておこう。

(注) 別の物語  http://aoisora.org 左記ページにある「見晴らし荘のころ」は、私の経験した国鉄分割・民営化の記録です。

 「港合同が連合に行くことを決めた」という話が私の耳に届いたのは、私が国労解体攻撃と必死に闘っていた一九八〇年代末のことだった。労働戦線の右翼的統一に反対して「労働情報」誌に集まっていた首都圏の活動家の間では、「裏切った港合同」を排除することは既定の路線となったが、私には細川鉄工の工場前で見た闘う労働者、倒産攻撃を受けてなお、工場を占拠して闘い続けようとしてきた南大阪の労働者たちがやすやすと闘いの旗を降ろすとは思えなかった。労働運動全体が後退していく中で、私の属する国労を含めた左派の多くは原則の旗を降ろさず、孤立を辞さずに闘う道を選んだが、孤立をさけて連合の中での闘いを模索するのも一つの方法だと思えた。
「向こうに行った港合同も呼んで、共同して討論集会をやったらいいと思うんだけどな」
 大阪での運動が困難に直面し、東京で開催されるようになって何回目かの労働者討論集会を前にブツブツ言った私に、
「おっ、久下は俺と同じ意見か…」
 と同調してくれた幹部もいたが、そんなことを公式の場で言い出す勢力はなく、その年から後の集会には港合同の姿も大和田さんの姿もなかった。そして分割・民営化と国鉄労働組合つぶしの攻撃に対して、職場をはいずり回って抵抗していた私の脳裏から、田中機械と大阪の金属労働運動の姿はいつしか消えていった。

 そんな私に突然電話があったのは一九九三年のことだった。
「大阪の大和田ですが、お願いの件がありましてお電話しました」
 私は雲の上の人からの電話にうろたえてしまったが、大和田さんの口調はあくまでも丁寧だった。
「実は大阪で国鉄臨時職員の解雇撤回闘争を闘っている和田弘子さんのことです。大変な苦労をしながら闘いを続けておられます」と大和田さんは言った。
「ええ、和田さんならよく知っています。闘いの現場でご一緒しますし応援しています」と私は答えた。
 国鉄の分割・民営化では七千名を超える労働者がJRへの採用を拒否され、最終的に千四十七名が解雇されたことは比較的知られているが、民営化を前に、全国各地で雇用されていた六千名の臨時職員が一斉に解雇されたことを知る者は少ない。有期の雇用契約を継続する形で、しかし、「いつまでも働いてもらって結構ですから」と言われて働いていた臨時職員が一斉に解雇されたとき、国労も含めたすべての組合は反撃できなかった。国鉄大阪工事局で国労の婦人部長をしていた和田弘子さんは、たった一人で解雇撤回闘争に立ち上がった。尻込みする国労を何とか闘いに参加させようと奮闘し、解雇撤回の裁判を支援すると約束させたが、それには「一審かぎり」という条件が付いていた。孤立無援で闘いに立ち上がった労働者に対して、「一審で負けたら逃げますよ」と最初から宣言して恥じない国労にあきれながら、和田さんはねばり強く組合に働きかけ、悔しさをこらえながら闘っていた。裁判には踏み切れないでやめたけれど、和田さんを応援したいという多くの臨時職員の思いを抱えながら。
 当時、和田弘子さんと国労の全国大会の開かれる会場前の喧噪の中で何度かお会いした記憶がある。そのころ、国労の全国大会は、毎回、機を見て千四十七名の解雇撤回闘争を和解・終結し、政府、JR各社と妥協可能な方針への転換を図ろうとする幹部たちと、闘いの継続を求める職場活動家たちのせめぎ合いの場となっていた。和田さんは自分自身の解雇撤回闘争への支援継続を訴えて、何度か全国大会に傍聴参加したはずだ。臨時職員の解雇撤回闘争に冷淡な中央本部のなかで、婦人部には闘いを正当に評価してくれる幹部がいると話してくれたことがある。晴天の大会会場前は蒸し暑く、明るい陽光に照らされたまるい額に汗が光っていた。私は闘いの現状を話してくれる和田さんの晴れやかな顔を見ながら、心の中で「闘う女は美しい」とつぶやいていた。だが、あのとき和田さんの本当の心中はどうだったのか。脳天気な私の思いこみとは反対の、闘い続けることの苦しさが、彼女の心にどれほどの影を落としていたのだろうか。
「和田弘子さんを、ぜひ今年度の (注) 多田謡子反権力人権賞の受賞者にしてあげてほしいのです。しんどい闘いをなんとか励ましたいと思っています」と大和田さんは言った。
 私は、二十九歳で死んだ新米弁護士におりた生命保険金をもとでに、友人たちで運営してきた小さな基金を手伝っていたが、無名に近い小さな基金に大阪の労働運動の大幹部がわざわざ連絡してきたこと、そして何より、国家権力による解雇に加えて、国労を含めて既存の労働運動の枠組みからも半ば排除されている臨時職員の孤立した闘いを、大和田さんが真剣に応援しているという事実が私を驚かせた。

(注) 多田謡子反権力人権賞  http://tadayoko.net

「和田さんの闘いはもちろん受賞に値すると思います。ですがここでお約束することはできませんから、資料を添えて応募してください」と私は答え、応募の手順を大和田さんに話した。大和田さんももちろん、私への電話で何かが決まるなどとは思っておらず、応募するのでよろしくと言って電話が切れた。その年の人権賞は、えん罪事件と闘い続けた免田栄さん、その後首相になったハイチの女性運動家ミシェル・D・ピエール・ルイ氏とともに和田弘子さんが受賞した。受賞発表会は十二月、東京で行われ、大和田さんが推薦の弁を述べ、和田さんが闘いの報告をした。

 それからさらに長い年月が過ぎた。国鉄が分割・民営化されたとき、和田弘子さんは臨時職員の仲間たちとともに解雇されたが、紆余曲折をへて、運よくJRに採用された私は十三年余り本来の仕事から排除された後、一九九八年に駅の仕事に復帰した。
「千四十七名の解雇撤回闘争とともに、和田弘子さんの解雇撤回闘争が決着しないうちは国鉄闘争は終わらない」
 そんな大口を叩いたこともある私だが、実際には解雇撤回をめざす会から送られてくるニュースを読んで、気が向いたときにカンパを振り込むことしかせずに年月だけが流れた。和田弘子さんは孤立した闘いの重圧の中で心を病み、闘いの前線に立つことすらできなくなってもなお、支援者とともに闘い続けた。私が何の力にもなれずにいたのは、事情があってわが家が小さな子供二人を抱えた父子家庭となり、子供を育てていくのが精一杯になったことも関係しているが、しかし、本当の理由は、「われわれの闘いは終わった」という思いが年を経るにつれて大きくなったからだ。
 分割・民営化の中で、国労は二十数万人を組織する多数派組合から数万人の少数組合に転落し、職場では「平成採」(平成年次の採用者)と呼ばれる、国鉄を知らないJRになって以降に採用された若者が年々増加していった。私たちの世代が国鉄に入社したとき、半ば自動的に国労組合員になったように、今では、入社してくる若者たちは何の事情もわからないままに、「入社した者は皆加入しているから」とだけ説明されて会社派の労組に加入するようになった。国労組合員の平均年齢は毎年一歳ずつ自動的に上がり続け、今では五十歳を超えている。
 もちろん私は、分割・民営化の際に解雇された千四十七名の解雇撤回闘争を支援し続けたし、国労本部が「(解雇について)JRに法的責任はない」という自殺的な方針を決定しようとしたとき、大会会場で体を張って方針の採択を阻止し、本部の制止を振り切って訴訟に踏み切った三百人余りの被解雇者を応援してきた。本部が統制処分を発動し、訴訟に踏み切った組合員への生活支援金を凍結したときには、本部を相手とする訴訟の原告になった。当事者たちが納得する解決を勝ち取るまで支援することは、私の人生にとって放棄することのできない義務だと思っていたからだ。しかし、そうした闘いは「敗北した国鉄闘争の最後の決着をつけるための闘いだ」という意識は年を追って強くなっていった。そして私はそれはそれでいいと思っていた。四十代からの人生を、私は「長い老後」のように生き続けてきたのだ。
 千四十七名の解雇撤回闘争と同様に、和田弘子さんが闘い続けるかぎり、私は支援する立場を放棄するつもりはなかったが、大阪と東京で遠く離れていたこともあり、直接の支援要請がないのをいいことに、私は闘いの現場に足を運ぶことなく長い年月が流れた。
 千四十七名の解雇撤回闘争の、さらに何倍もの困難が和田さんの前に立ちふさがっていた。私は、私が労働運動に参加した七十年代以降、官民を問わず、多くの臨時労働者たちが差別的扱いとの闘いに立ち上がったのを知っている。そして、多くの争議が長く苦しい闘いを余儀なくされ、多くの闘いが勝利を得ることなく収束していったことも知っている。雇用の調整弁として、また、賃金コスト低減のための手段として、臨時労働者を利用することは、ある意味で社会の中に定着していったからだ。労働組合じたいが、たとえ「左派」を自認する組合であったとしても、本音のところでは「臨時労働者を本工と区別することはしょうがない」として、正面から争わないことがほとんどだった。解雇撤回闘争に立ち上がった和田さんに対して、「裁判支援は一審かぎり」と臆面もなく通告した国労もまた、そうした組合の一つだった。
 私は和田弘子さんを支援し続ける立場を撤回しようなどとは思わなかったが、和田さんの闘いを考えるとき、いつも「もしも私が和田さんだったらどうしただろう」という思いが沸いてきた。そして、私が和田さんだったら、こんなに苦しい闘いはとうてい続けられないだろうとそのたびに思った。

 二〇〇九年、和田さんの解雇を撤回させる会から、退職金の不正を告発した裁判の判決が出る。体調を崩していた本人も上京するので行動に参加してほしいというはがきが来た。私は、和田弘子さんの解雇撤回を求める行動に、その年はじめて参加した。判決当日、私は上京した人々と一緒に十人ほどで横浜駅からほど近い大きなビルの前でビラをまいた。和田さんが闘っている相手は二十年以上の長い間に、国鉄から国鉄清算事業団へ、日本鉄道建設公団へ、そしてさらに鉄道建設・運輸施設整備支援機構へと法人格を変えていた。訴訟相手の入る二十数階建ての白い高層ビルの入り口には分厚いガラス戸がピカピカ光って、警備員が二人立っていた。ダークスーツ姿で時々出入りする男たちに私たちはビラを手渡そうとするが、ほとんどの者は汚い物でも見るような目つきで私たちを一瞥すると通り過ぎてゆく。歩道に横断幕を張り、ハンドマイクで訴える私たちの姿はどうしても風景にとけ込まなかった。
 一九七二年、私が大阪南港の細川鉄工闘争に参加してから四十年近くたっていた。あのとき、十代の私に「闘う労働者階級の仲間がここにいる」と確信させた労働者たちの姿はそこにはなかった。また、分割・民営化で三人に一人が職を追われるという厳しい情勢のなかで、赤いはちまきと菜っ葉服すがたで東京駅前の国鉄本社を包囲し、「一人の首切りも許さないぞー」と拳を振り上げながらシュプレヒコールをあげた数千人の国労組合員の姿はそこにはなかった。私たちはときおり通るビジネススーツ姿のサラリーマンにビラを差し出し続け、十数人に一人ほどが受け取った。
 大和田幸治さんは、圧倒的な孤立のなかで闘い続けてきた和田弘子さんとともにいた。ビラをまいた現場に大和田幸治さんと和田弘子さんがいた記憶はない。高齢の大和田さんは心の病がまだ完治しない和田さんとともに、裁判所で私たちと合流したのではなかったか?
 原告席に和田弘子さんと弁護士が座り、十数人の傍聴者が見守る中で、判決はあっけなく言い渡された。国鉄を法的に継承した鉄道建設・運輸施設整備支援機構に対して、不当に減額された退職金の支払いその他を求めた和田さんの主張は退けられた。敗訴だった。
 判決の後、弁護士会館の一室に集まって今後の事を相談する会合がもたれた。和田弘子さんの闘いを長い間支え続けてきた大和田さんは、昔と同じように、ぎょろりとした目で参加者を見回しながら判決について話し始めた。冷静な話しぶりは、敗訴が織り込み済みであったことを示していた。予想された敗訴だった。だが、敗訴が予想されていたことは、敗訴が正当な法的判断によって下されたことをまったく意味していなかった。
 大和田さんは、六千名の臨時労働者に支払われた退職金が、何の根拠もなく減額された事実は認定しながら、様々な詭弁を弄して差額支払いの必要を認めない判決は臨時労働者に対する差別を国家が公然と認めるものだと述べた。そして、われわれは裁判を通じてただ減額された金銭の支払いを求めているのではない。国による国鉄臨時雇用員に対する不当な差別の実態を明らかにすることを通じて、国鉄臨時雇用員の労働者としての当然の権利を回復するために闘っているのだと話した。そして、無権利で低賃金な非正規労働者がますます増大している中で、この闘いは大きな意味を持っているのだと話した。自ら指導した港の労働運動が、社外工の本工化を勝ち取り、女性への差別賃金を打ち破って団結を固めていったことへの確信は揺らいでいなかった。和田弘子さんは、静かな口調でその日、行動に参加した者全員に礼を言った。そして、今後の闘いは大阪に帰ってから皆でよく相談して決めるが、いずれにせよ闘いをやめることはできないと言った。
 横浜でのビラまきと裁判の傍聴に参加していた十数人の人々は、皆、圧倒的な孤立の中で臨時労働者の権利のために闘い続けてきた人々だった。一人一人が自分の闘いを報告し、和田さんの闘いに連帯する決意を延べた。私の番になった。私は国労新橋支部に所属する一組合員だと述べたあと、本来ならばこの闘いを全面的に支援しなければならない国労が、この場にいないことを心から申し訳なく思うと言った。話している自分自身がむなしくなる空虚な言葉だった。十年以上闘いの前線から引いて生きてきた私は、和田さんの闘いをJRの中で支える運動も組織も、その足がかりさえなくしていた。

 私が大和田さんにお目にかかったのはその日が最後になった。次の年、和田通郎さんから、当時、私が面識のあった国会議員に厚労省との折衝を仲介してほしいという要請があった。その時、撤回させる会がつくった分厚い資料とともに、大和田幸治さんが、和田さんの闘いの意義を心を込めて綴った文書が送られてきた。演壇で話すときと同様、冷静で理路整然とした文書は、和田闘争の問題点は、第一に不当解雇、第二に団交拒否、そして第三に退職手当の不当な減額であるとして、特に、退職手当の減額について、臨時雇用員だけは就業規則の定める金額に0.8を掛けたうえ、企業に責のある整理解雇を自己都合退職扱いにしてさらに減額したことにはまったく根拠がなく、労使協議もなしに、あるかないかも定かでない事務連絡で、一方的に退職手当を減額することは差別そのものだと記されていた。そして、こう結ばれていた。

 国鉄は臨時雇用員を人として扱わず、物品扱いして利益追及の道具として来ましたが、臨職を無条件で解雇した実践に味をしめ、JRの現状は駅員・窓口等々、多数の非正規労働者で運営されています。
 再び臨織の苦闘をくり返さない為にも、国鉄臨織に加えられた差別と不当性を明らかにしなければなりません。

 グリーンスタッフと呼ばれるJR東日本のの契約社員は一年単位の契約で最長五年間しか働く事ができない。三年目から受けることのできる正社員登用試験の機会は三回。三回受けて受からない者は退職するしかないのだ。今や駅の改札口やみどりの窓口、旅行センターには一年契約の非正規労働者がどんどん導入され、これとは別に、小さな駅は丸ごと下請け会社に外注されるまでになっている。私は大和田さんの文章を読みながら、これまで駅で一緒に働いてきた、グリーンスタッフの若者たちのたくさんの顔を思い浮かべていた。
 だいぶ以前になるが、私は和田弘子さんから国鉄には臨時労働者の職員化をめざす闘いの歴史があることを教えてもらったことがある。たとえば一九五〇年代、国鉄バスの車掌として働いていた臨時職員の女性たちは職員化を要求して、国労に結集して闘って成果を上げた。一九八〇年代、分割・民営化に際しての臨時労働者六千人の解雇との闘いは、和田さんだけの困難な孤立した闘いにならざるを得なかったが、五〇年代から続く臨時労働者の闘いの炎は消えずに二十一世紀に引き継がれた。和田さんの未完の闘いは、グリーンスタッフの若い仲間たちの正社員化を求める未来の闘いに引き継がれるのだろうか。
「再び臨織の苦闘をくり返さない為にも、国鉄臨織に加えられた差別と不当性を明らかにしなければなりません。」
 和田弘子さんの執念を込めた半生の闘い、労働者内部の差別と分断を許さないという労働運動の原点に立ち続け、和田弘子さんを支援し続けた大和田幸治さんの後半生を私は思った。

「大和田さんは最後まで闘いの現場に立ち続けていました」
 大和田幸治さんの死を知らせてくれたとき、和田通郎さんが電話の向こうで話した言葉を私は噛みしめる。
 全金港合同支部の千余の戦闘的な労働者たちの姿は消えた。菜っ葉服姿の国鉄労働組合員の万余の隊列は消えた。私はもうずいぶん以前から、港の労働者街に住んでいた十代の頃のように、資本主義を超えるもう一つの世界への道すじを素朴に信ずることができなくなってしまった。
 しかし、初発の意志を放棄しなかった大和田幸治さんの闘いは継続し、倒産攻撃によって資本家が去り、労働者の管理する企業となった田中機械の中で、 (注) 全国金属機械労働組合田中機械支部が全金田中支部の闘いを継承していることを私は知っている。和田弘子さんの闘いも、もっとも困難な状況に直面しながら続いている。

(注) 全国金属機械労働組合田中機械支部  http://www.minatogodo.org 田中機械支部は港合同の構成団体

 消えたように見える闘う人々の隊列はいつか復活すると、今、私は思いたい。世の中から差別や不正がなくなり、すべての人々が安心して働き続け、生き続けることのできる世の中がやってくる日まで、消えたように見える闘いの炎、少数の者だけが孤立に耐えて掲げ続けた炎は、いつか燎原の炎となって、差別する者たち、不正をはたらく者たちを焼き尽くすのだと私は思いたい。
 分割・民営化の嵐をかいくぐり、少数となっても組織を維持した国労は、現在、非正規社員の正社員登用を要求している。しかし、和田弘子さんの解雇撤回闘争を「一審かぎり」しか支援しなかった国労の限界は今も突破されてはいない。まして、国労を権力に売り渡して主流派の座に座った会社派労組に、非正規社員の正社員化という困難な要求の実現を託すことなどできるはずはない。

 しかし私はどうなのか。

 差別の中で今は会社の顔色を窺うことしかできない駅の非正規労働者たち。グリーンスタッフと呼ばれる若い彼らのたくさんの顔を、私は思い浮かべる。不安定な雇用に耐えている彼らに、私は機会あるごとに「君たちは全員が、無条件に正社員として採用される権利を持っている」と、ただ励まし続けることしかできないでいるのだ。しかし、いつかは非正規社員の正社員化を要求して、正社員と非正規社員がスクラムを組んでストライキで闘うことのできる労働組合をJRの中につくりたい。
 それは一旦敗北した国鉄闘争が、資本家のつくった非正規労働者と本工という差別構造を乗り越えて団結し、和田弘子さんの苦闘を受け継ぐ質をもって隊列を組み直し、新しい陣容で闘う新しい闘いとなるだろう。
 死の八日前の講演で橋下大阪市政を批判して、労働者の団結権を守り抜くことを訴えた大和田幸治さん。死の三日前まで組合事務所に座っていたという大和田幸治さんの執念を思うとき、私は、再び闘いの前面に立ちたいという気持ちの高ぶるのを感ずる。新しい闘いは何よりも非正規労働者の正社員化をめざす闘いでなければならない。この闘いを共に闘える仲間はどこにいるのだろうか。

 私は未来の同志をさがして、もう一度旗を掲げたいと思う。

2012年11月15日