100人が、18年ぶり本来職場へ復帰。「ベンディング」ついに廃止。

2005/02/15

 2005年2月1日、首都圏で働く約100人の国労組合員が、1987年のJR発足以来閉じこめられていた隔離職場から解放され、鉄道部門の駅その他に発令されました。排除されていた期間は実に18年におよんだことになります。
 彼らがJR発足以来働いていたのは、ベンディング事業所という缶ジュースの配送を担当する職場で、分割・民営化当時、JR不採用を見越して「人材活用センター」に収容され、応募者の定員割れでかろうじてJRには採用されたものの、本来の仕事から排除され隔離され続けてきたのです。/br 運転士、車掌、保線、電気、駅など、様々な職場から排除された国労組合員を収容してきた「ベンディング」で、数年前から縮小の動きがあることは当ページでもふれてきましたが、今回、ついに全面的に廃止されたわけです(経過措置として1箇所のみ存続)。今も保線その他に隔離職場は存続していますが、国労排除の象徴となってきた「ベンディング」が廃止されたことは、分割・民営化をめぐる労使紛争の節目となると思います。
 会社側から考えた場合、「ベンディング」の廃止は分割・民営化政策の終結という意味があると思います。2002年、政府が持っていた株が全面的に放出されてJR東日本が「純民間会社」になったことが、表の面だとすると、ベンディングの廃止はその裏面です。分割・民営化の裏側に、200人もの自殺者を出した強権的な労働組合攻撃のあったこと、その攻撃がいまだに続いていることの象徴のような存在であった「ベンディング」がなくなることは、ある意味では証拠隠滅であって、規制緩和・新自由主義政策の最大の成功例とされている国鉄の民営化政策の裏面にむき出しの暴力的な権利侵害があったという事実の痕跡は、やがてなくなっていくでしょう。
 しかし、ともかく20年近くにわたって排除され続けてきた労働者100人が、本来の職場に帰ってきました。会社の不当な差別政策によって、ほとんどの仲間は、本来職場にいた期間より、「ベンディング」に隔離されていた期間の方が長くなっているわけで、隔離されたとき30代の、まだ青年と言ってよいような年だった仲間たちは、白髪も交じり、中には立派にはげ上がった中年おやじとなって帰ってきました。私の親しい友人も何名か戻ってきて、2月1日から駅で見習いをしていますが、もと駅にいた仲間にとっても、自動改札もなく、1枚1枚改札で切符にはさみを入れていたころに駅を離れているわけですから、まさに浦島太郎。大変だとは思いますが、ゆっくりと仕事のリハビリに励み、ストレスなく働ける日が早く来るように願っています。
 さて、私を含めて、私のまわりにいる首都圏の国労組合員は、分割・民営化当時、新会社からの排除者リストに確実にのっていたものが、JRへの希望者の定員割れという予定外の事態によって、政府からもJRの経営陣からも「仕方なく、しぶしぶ、いやいやながら」JRに採用されたわけで、その後、仕事でも賃金でも露骨な差別を受けて現在に至っているわけですが、「採用された」という事実は事実で、今回「ベンディング」もなくなり、退職する時は、賃金面での差別はともかく、「普通の駅員」として退職するみこみがたってきました。
 しかし、北海道・九州を中心に採用を拒否された仲間、1987年の分割・民営化で清算事業団に送られ、3年後の1990年に2度目の解雇をされ、国労闘争団として闘うことを余儀なくされた約1,000人の仲間たちにとっては、まだ、最後は「普通の労働者として」退職するという展望はたっていません。今回の事態を、国労の上部機関は、JR東日本が労務政策を転換しつつあることの証ととらえ、会社との和解・労使正常化を進める好機としているようですが、もしも、和解が、解雇撤回闘争を脇にのけたままの、「JRに採用された組合員と会社との和解」になるようなら、これ以上の裏切り、労働組合としての堕落はないと思います。今回のベンディング廃止を、解雇撤回闘争を含む全面一括和解、解雇された仲間たちと家族が「闘ってきてよかった」と思える結末への一歩とするために微力を尽くしたいと思います。