三里塚にかかわる「自分のこと」  = 堕ちてもまた飛ぼうとしてこそ=

2017/10

岡野 純一
https://www.facebook.com/junichi.okano.3


関西の大学在学時代に三里塚闘争を闘い、今は千葉県にお住いの岡野純一さんが facebook にお書きになった文章を「窓」で公開することを許可してくださいました。大変ありがとうございます。 「三里塚のイカロス」公開を機に、あの時代を闘ったたくさんの仲間たちが今も未来を見据えて歩んでいることを知ったことは何よりの喜びです。


私は代島監督と同じ1958年生まれ。3月生れ=早生れなので、学年では監督より一個上なのかも知れない。1964年東京オリンピックの年に小学校入学、1970年大阪万博の年に中学入学。
監督は「子供のころに学生たちの運動をみて何となく自分も学生になったら関わるんだろうなと感じていた」との事だが、実は小学校時代の私は学園紛争・学生運動というものに本分の勉強を忘れて騒ぎまわってる無責任な連中と反発を感じていた。佐藤訪ベト阻止闘争で京大生山崎博昭君が機動隊に殺された際も「警察車両を乗っ取った学生が轢き殺した」というマスコミ報道を信用しきっていた。ちなみに東大安田講堂攻防戦報道は全く記憶に無い。
私が二十歳まで生れ育った神戸という街も当時は神戸大学闘争を筆頭に至る所の高校でバリケードストライキが頻発し、自宅から歩いて10分のところにある市立高校の警備のため周辺の交番が高校正門前のマンモス交番に集約されるという事態も起こっていたようだが、小学生の私にはまったく無縁の世界。

そんな私に衝撃を与えたのが中学1年から2年に変わる直前の「三里塚第一次強制代執行」。農地を守るため身体を張って闘う農民の姿に目を見開いた。そしてその中に自分と同世代いや自分よりも幼い小学生たちの姿があることに衝撃を受けた。
当時の中学生向け雑誌「中学コース」投稿欄が「農民支持」に埋め尽くされていたのを憶えている。「中には農民は大人しく土地を明け渡すべきだとの声もありました」との編集部コメントは書かれていたが、空港賛成の投稿は実際に紹介されることはなかった。
しばらくして第二次代執行が強行され農民放送塔を人が乗ったまま引きずり倒す暴挙には唖然とさせられた。東峰十字路での「3警官殺し」にマスコミ報道は埋め尽くされたが、肺が潰れたという放送塔に乗っていた学生のその後は報道されることは無かった。
以来、政府警察マスコミに決定的な反発を覚え農民と共に闘いたいとは思いつつも情報の回路すらないまま悶々とする毎日を送っていた。マスコミでは爆弾事件・内ゲバ・日本赤軍の凄惨な報道が繰返されたが、何とか「その裏」を読み取ろうとしていた。

転機が訪れたのは高校入学。社会科学研究部というクラブの新歓企画「三里塚第2砦の人々」の上映会。やっと求めていた世界に出会えたのだが、その部活に在校生はいなかった。最後の活動家世代が私の入学直前に卒業したようで、3~4個上の卒業生連中が企画していた。赤旗とヘルメット、ガリ版刷りのアジビラがうず高く置かれた部室に、内ゲバ戦争が繰り広げられている大学に居場所がないノンセクトの先輩が足しげく通っていた。
ちょうどその時期、地元の神戸市垂水区では「明石海峡大橋建設」問題が持ち上がり、高校卒業直後に三里塚現闘に行ったという6個上の元フロントだという先輩の両親が住民運動を始めていた。明石海峡を挟んで対面の淡路島では従前より関西新空港反対運動が繰り広げられており、その主体である淡路町空港反対期成同盟が明石架橋にも反対していると聞いて、代表の永井満さんを同級生数名と一緒に尋ねたことがある。
明石架橋そのものは反対運動の成果ではなく石油ショックで計画中止となり、規模を縮小して阪神大震災後に完成されるのだが、当初計画通り高速道路だけではなく新幹線と在来線、おまけに石油パイプラインまで抱え込んだ明石架橋が阪神大震災の時点で完成運用されていなくて良かったとつくづく想う...

先輩たちのケツを追っかけて平和台病院争議支援運動、1973年神戸べ平連最後の10.21国際反戦デー、襤褸の旗上映運動~三里塚反対同盟委員長戸村一作氏の参議院選挙に関わる中で、貴重な情報源だったのが元町高架下にあったその名も「イカロス書房」、各種ミニコミ誌・党派機関紙で埋め尽くされた小さな本屋が世界につながる窓口なのだった。
自宅の引越しに伴ってご近所になった神戸市民救援会議の加瀬都貴子さん宅にも通い「刑法改悪に反対する人々の会」にも関わった。
人々の会のメンバーのオバサンの娘が高校の同級生だったり、第四インター機関紙「世界革命」を毎週イカロス書房に届けているのが高校の女の先生であることを知るのには1~2年かかった。

三里塚の強制代執行を目の当たりにして「暴力革命」は自然と受け入れていた。むしろ「暴力反対」を掲げつつ反対運動に敵対する政府・マスコミや日本共産党の醜態には辟易としていた。だからその反動として「内ゲバ」も何となく必要悪として理解し受け入れようとはしていたのだが、それは実態を知らないウチだけだった。「遅れてきた青年」と自任していた私は中核派を「新左翼のチャンピオン」となんとなく憧れていたのだが、初めてその機関紙「前進」1974年新年合併号を読んだとき激しく吐き気をもよおした。「これは一体なんなんだ?」最初から最後まで「反革命カクマルせん滅」しか書かれていないその紙面に何んの知性も理念も感じられなかった。かといって単純な「暴力反対」に戻るわけにもいかない。愕然とし混乱した私が次に手にしたのが「革命的暴力と内部ゲバルト」なる第四インターの小冊子。「革命的暴力の観点から内ゲバに反対する」その観点は砂に浸み込む水のように受け止められた。どうやら関西には高校生組織(映画で平田が語っていたFIH、国際主義高校戦線)がないようだから大学に入ったらインターに入ろうと秘かに隠れ四トロシンパを決め込んだ。

早く運動に入るため絶対に浪人はしないと偏差値レベルを下げてようやく大阪府南河内の大学に滑り込み、インターに入ることになる。この映画にでてくる二人の「元第四インター活動家」は当時の関西時代に知り合った。20人に満たない関西学生メンバーの一人が平田。平田が管制塔で捕まったのち一時期京都に派遣された際、夜のステッカー貼りの運転手をしてくれていたのが吉田クン。吉田クンと初めて会ったとき「この人が同志鬼頭か!」と感動したことを憶えている。

大学2年の春、三里塚闘争の象徴であり心の支えでもあった岩山大鉄塔があっけなく倒されたと聞いたとたん周りの風景が一変した。薄いオレンジ色の膜が自分を取り囲み世界と隔絶されたように感じた。とるものもとりあえず現地に急行し、翌日のテスト飛行阻止闘争で自分もあっけなく逮捕される。
警察車両に押し込まれるとき初めて4000m滑走路の中を観た。一番機であるYS-11がゆっくり滑走路を走っていた。映画のラストの風景がまさしくそれでありました。「これで青春も終わりかなとつぶやいた~」の歌詞が頭に浮かぶ。反対運動が大反撃を開始するのは私ら逮捕の翌日。千葉中央署の中で5.8戦闘を知るのは数日後。信じられなかった。
19歳ではあったが成人推定で起訴後、少年として公訴棄却・家裁送~逆送と、半年のあいだ千葉中央署・千葉刑務所・少年鑑別所をたらい回しにされる。鉄塔決戦では少年含めて100%起訴、開港阻止決戦ですら保護観察になった少年がいた。それだけ福田政権の年内開港の意志が強かったのだろう。
ちなみに千葉市に定着後、千葉市天台の少年鑑別所周辺に住んでいた。連れ合いは当時となりの児童相談所に勤めていたし、2人の子供はやはり隣の保育所育ち。保育所時代に父母会会長をしたことがあるが前会長は鑑別所職員だった。

保釈後半月で横堀要塞建設隊、年明けでいったん大学へ戻るも2月要塞戦後に第2次建設隊へ。横堀要塞のトンネル掘りをしていたが被告であるため死守隊には入らず決戦体制に入る直前に外へ。外では火炎瓶づくりのためのビール瓶盗みで周辺の酒屋を回ったり、装甲トラックづくりのお手伝いをしたり、3,26当日は横堀団結小屋の防衛隊。闘争が始まると小屋の周囲は機動隊で囲まれる、手足の1本や2本は覚悟しろ、決して反撃はするな、小屋に火をつけられないようにしろ...と厳命を受けましたが、手足をやられたらどうやって小屋を守るのでしょう?幸い管制塔の同志諸君が1日で決着をつけてくれたので、そのような事態にならずに済んだ。

4月以降も現地と関西を行ったり来たり、夏に開港後の騒音地帯の住民運動を反対同盟と別枠で組織するとの方針から「北総工作隊」なるものが提起され、その一員として最終的に千葉に移住することになる。成田の飛行直下地域、冨里・大栄の二期飛行直下予定地を正体不明のチラシを手に車に乗れないものだからテクテク歩いた。1979年3月の成田市議選では北原選対の事務局員として中核派・解放派と一緒に3カ月選対に泊まり込んだ。映画では岸氏が当時の団結小屋の数を「20ぐらい」と述べていたが、北原選対に詰めたのは現地23団体+成田市内から1団体であったはず。(中核やインターのように複数の小屋を持つ団体もあったので団体数でいう)
工作隊発足時に山口武秀さんに計画を話し意見を聞く朝倉公民館での会合に同席した。残念ながら山口武秀さんは当方の計画に関心を持っていただけなかった。責任者からひとしきり説明を聞いた後に山口武秀さんが口にしたのは「成田用水問題」であった。「空港関連施設ということで成田用水に反対する気持ちは理解できる」としながらも「農業基盤整備を無視する農民運動は長続きできない」旨を述べられた。

いささか長くなったこの文章の結論はこの山口武秀さんの意見で〆たいと思う。
60年代の日本共産党、70年代の中核派ともに三里塚闘争を一個の大衆運動。農民運動として発展させるのではなく、自らの党利党略のシンボルとして支配しようとした。それ以外の新左翼諸党派も単純な政治化・先鋭化のみを「三里塚」に求めてしまっていた。「我が第四インター」は問題意識は持ちつつ、そこを乗り越える力を持てないまま自壊してしまった。
イカロスは無謀にではあれ太陽に挑戦したからこそイカロスなのだと改めて思う。堕ちてもまた飛ぼうとしてこそ初めてイカロスを超えられる...と。

空港問題は継続し山積みしている。用地内追い出しは未だに続き、夜間飛行・第3滑走路の策謀さえ強まっている。
3.26と円卓会議の成果と限界の真剣な検討が求められている。


 映画「三里塚のイカロス」公式サイト  http://www.moviola.jp/sanrizuka_icarus/